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性的虐待‥性虐待はなぜ起きる

私は実父親に幼稚園から中学2年まで性虐待を受けて育ちました。一見普通に見える家庭内で起こった犯罪。私の家庭で何が起こっていたのかを冷静に振り返りこれからの子供達を性的虐待から守ることが出来るのか、不幸にも私と同じ様な体験をしてしまった人達には何が必要かを考えて行きたいと思います

ブログに訪れた方はまずこちらをご覧下さい。

30年間理解がなかった母親が理解ある母親に変わる為に必要だったこと①

七十一歳になる母親は徳島県の田舎町に四番目の子として産まれました。上の三人は男の子で初めての女の子だったので両親から凄く大切に育てられたと聞いています。小さい頃から日本舞踊を習わせてもらってました。真面目で清楚な感じの女の子だったのでしょう。地元の大学を出て教員免許を取り今から社会に出るという時にお見合いをしてそのまま結婚してしまいました。

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社会に出たことのない母親は全てを父親に依存してしまいました。金銭面もですけど、自分の振る舞いや考え方全てを父親のいう通りにすることが良い奥さんだと信じて実行していました。父親に叩かれることがあっても父親のことを悪く言ったことはありません。自分に足りないところがあるから怒られているのだと思い従うことで自分の居場所を確保している感じでした。自分の親にも愚痴を言う事は一度もありませんでした。心配をかけてはいけないと思い当時は何も言えなかったと言っていました。

 

子育てに対しても父親のいう事を全て実行していました。本当の母親の性格は優しく人に手をあげたりするタイプではありませんが、父親に洗脳されていた母親は父親と同じく言うことを聞かなければ私に体罰をしていました。無視もありました。とにかく些細なことでも思い通りにいかなければヒステリックを起こしていました。仕事に出ることは父親から止められていましたので教員免許を持ちながらも専業主婦でした。

 

自分に経済力が無かったことで本当に気の毒な人生だったと思います。

 

今現在は地域の行事やイベントのお手伝いしたりしています。愚痴を言わずに裏方に徹するタイプです。

結婚相手が優しい男性なら彼女は本当に立派な優しい母親になれていたと思います。

 

二十代、三十代の頃の父親は傲慢で理不尽な人でした。自分の思い通りにならなければ切れて怒鳴る、暴力を振るうと今思うと、かんしゃく持ちの子供です。仕事のストレスを全て私達に向けていたのでしょう。当時、私は子供だったのでそんな父親でも大人に見えていました。

 

今、四十六の私は当時の父親より年上になっているからでしょうか、父親を思い出すと笑っちゃうくらい幼かったように思います。子供が親の年齢を追い抜くのです。

 

そう思うとどうしてあの時はあんなことしたの?どうして?どうして?の堂々巡りから解放されました。どうして?とか理由などは無くただ父親は自分の気持ちの切り替えが出来ない子供、子供なので愛し方がわからずまだまだ自分が一番に愛されたい。愛情を独占したい子供、いたって簡単な答えでした。親はいつも自分の前に立ちはだかる人生の先輩じゃないことだってあるんです。

 

虐待をうけてた頃はあんなに怖かったのに(笑)

あんまり言うとまた怒られてしまうのでこのくらいにしておきます。

 

でも外面は違うようです。地方の一流企業でそれなりに昇進して頑張っていました。人徳があるように喋る事が得意です。地元のお寺を立て直す時には何百万もの大金を寄付したりして素晴らしいお父さんですね!といわれます。その度に私は心の中で(みんな本当の事知らないもんなー)と思ってしまいますが(*´Д`*)

 

母親が性虐待の事を知ったのは私が中学二年のときです。どうしても耐えられなくなり母親に救いを求めました。中学ニ年の私はからだ作りも名称もわからず女性には尿が出るところと便が出るところの間に赤ちゃんが産まれてくるところがあることすら自分では確認できていない子供でした。父親にされていることも実際見たわけではないし膣に挿入されているのがどんな状態なのかもわからないしどう伝えたらよいのかもわからなかったけど、できる限りの言葉を一生懸命伝え助けを求めました。

 

しかし母親にとっても父親が絶対だったので信じることが出来なかったのか私に他言しないように父親を許し忘れるようお父さんはゆかりが可愛くってした行動だったのだろうと父親を擁護する言葉でした。

 

私も母親を裏切り悲しませていることはわかっていたので、母親を責めることも出来ず、離婚して守って欲しかったけど、母親にハッキリと父親とは離婚する気はないと言われ仕方ない事だ自分が我慢するしかないだと諦めました。

 

事実を知ってしまった母親を心配しましたが、母親はすぐにいつもと変わらない生活に戻りました。ホッとする反面どうしてこんな重大なことなのに普通にしていられるのかと失望と腹立たしい気持ちで私の心は更に荒れていきました。

 

二十歳の頃、父親から母親伝いに謝りの手紙を貰いました。その時母親は「私も読ませてもらったけど、お父さんも悪かったと言ってるんだから許してあげなさい」と言いました。私はもう自分が我慢するしかないと諦めていましたので「わかった。もういい」と手紙を突き返しました。

 

私は三十歳でうつ病になりました。すべてのことに無気力になりました。虐待をうけてからずっと一人の時間が苦手で仕事が休みの日は何かと予定を詰め込みました。予定がない日は自然と過去の事を思い出してしまい、涙が溢れ出し死にたいとネガテイブになることへ心が耐えられなくなっていき結婚生活にも行き詰まりどうすることも出来ない精神状態になってしまいました。

 

私はまた母親に相談しました。「どうしても過去に囚われてしまい前に進めない。初めての相手が実の父だということが許せない」

手紙を受け取ったとき以来十年ぶりにその話題を口にしたと思います。

 

その時の母親は驚いた様子で「そんな大変なことをお父さんはあなたにしたの。お母さんの出来る精一杯の罪滅ぼしとしてあなたと孫たちの為にこれからの生涯をささげさせて欲しい。でも今はお父さんが会社で大切なプロジェクトに携わっているから後、数年待って欲しい。それからは別居する」と言い私に謝りました。

 

私はたぶんうつ病なので病院へ連れて行って欲しいとお願いしましたが母親は「うつ病とは気持ちの持ちようだからしっかりしなさい」と言われてしまいました。

 

でも後、数年我慢したら少しは母親が行動を起こしてくれる。今よりは何かが変わり気持ちも少しは晴れるのだろうとこの時も私は母親の言葉に従い自分自身に頑張るよに言い聞かせて何とかやり過ごしました。

 

離婚して仕事も行かずに一年間家にいました。その間の生活費は父親がみてくれました。

 

寝られない夜も少しずつ減り一年経ち、美容室の支店長をして欲しいとお話しを頂き仕事を復帰しました。環境が変わりうつ病も回復していき仕事へのやり甲斐を感じられるようになっていきました。

 

母親からはその後何年たっても何の行動もなく私が四十歳になった頃、あの話はいつのことかと聞きました。その頃は父親も定年していたので、仕事の為に待って欲しいとは言われないだろうとと思い、思い切って聞いてみました。母親からの返事は「お父さんと今更離れる気持ちは全然ない」でした。

 

その頃もうつ病は治ったものの相変わらず一人でいることが不安で休みの日は子供が学校から帰って来るまで一日中外で過ごし予定がない日は自殺願望とネガテイブな自分との戦いでした。

 

父親と縁を切ることは母親とも縁を切ることなんだろうと思っていましたから自分から強くも言い出せずやはり私が我慢するしかないのだと諦めました。四十歳にもなって母親の愛情を欲しがる私は子供なのでしょうか?

 

でもその頃から親の愛情を求めることは叶わないことなのだから諦めよう。そのことに悩み時間を使うのではなく私の受けていた性虐待を公表することで今後被害者を減らすお手伝いに時間を使おうと思うようになっていきました。

 

それによって親と決別するようなことになってもそれも私に課せられた運命と捉えよう。親に理解を求めてもどうにもならないのなら自分が変わるしかないと思い過去を振り返りどこで間違ってしまったのか自分を知らなければと勇気を持つように努力しました。

 

一度にたくさん思い出すことは精神的に無理ですが少しずつ調子の良い時に振り返り文書に書き起こしていきました。思い出していくうちに苦しみ泪が止まらず嗚咽を漏らしながら泣く日もありました。

 

少しづつですがいろいろ見つめ直すうちに自分が悪かったのではないと自己否定から自己肯定へ考えが変わっていくことに気がつきました。

 

死にたいと思う気持ちが全く無くなったとは言えませんが生きていても許されるような気持ちが湧いて来ました。

 

母親は本当は優しい人で父親以外の男性と結婚していたなら良い奥さんであり母親だったと思います。父親により人生をめちゃくちゃにされたという点では私と同じ被害者なのです。

 

私が被害を公表することで、母親も父親と同じ罪人になるのは可哀想で私は母親のこれからの人生を責任をもって引き受ける覚悟でもう一度、母親に話をしてみようと思いました。でもこの考えは凄く甘かった。今まで未練がましく母親に愛情を求めていた気持ちが全く無くなりました。絶望と蔑みの感情を抱くことになりました。