性的虐待‥性虐待はなぜ起きる

私は実父親に幼稚園から中学2年まで性虐待を受けて育ちました。一見普通に見える家庭内で起こった犯罪。私の家庭で何が起こっていたのかを冷静に振り返りこれからの子供達を性的虐待から守ることが出来るのか、不幸にも私と同じ様な体験をしてしまった人達には何が必要かを考えて行きたいと思います。

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性虐待①・・・私の家庭でなにが起こっていたのか

 

私は現在、香川県高松市に住む46歳。高校を卒業後、大阪に出て通信課程を経て美容師免許を取り、少しの休職期間はあったものの現在に至るまでの間、美容室でサロンワークにつかせてもらっております。


二十歳で結婚をしました。二人の子供にも恵まれ、一人目の子供の出産を機に大阪から香川に戻ってきました。三十歳の時離婚してしまい子供達には寂しい思いをさせてしまいましたが、今はもう二人共、成人して長男は県外に就職、長女も県外の大学へ進学しました。四年前からこの先の人生を共に過ごしたいと願うパートナーとの出会いもありました。


今まで周りの人々にいつも助けていただき、今日まで頑張ってくることができたと感謝しています。

 

私には学生時代からの友達にすら今まで言えなかった過去があります。ずっと言いたかったのですが、とても恥ずかしく惨めで、言いだすことができませんでした。言ってしまうことで友達に気を遣わせてしまい、本当の友達ではなくなってしまいそうで怖くて言えませんでした。

 

『神は乗り越えれる試練しか与えない』と言います。(私はキリスト教ではありませんが、キリスト教徒の叔母さんに教えてもらいました)子供の頃からずっと何度も神様に「わたしになぜこの試練を与えられたのですか? わたしには乗り越えることが無理です。お願いします。こんな試練を与えるのはやめて下さい。わたしの記憶からすべてを消し去ってしまってください」と祈りながら長い間生きてきました。

 

それは実の父親からの性虐待です。私の最初の男性は父親です。


最近、被害を受けていた頃の自分を冷静に客観的に思い出すことが出来るようになって、気持ちの整理がついてきました。父親とこうなったのも私に落ち度があったせいではないのか。人として犯してはいけないことをしてしまった生きる価値もない人間ではないのか惨めで汚らわしい人生。という思いが心の中に常にあり、ふと思い出す子供の頃の自分は、群れをなした害虫の塊のように汚く思えて目を背け、現実を直視することができませんでした。ただただ忘れたいと思うばかりでした。

 

そんな中『性虐待』という言葉は今までの考えとは全く違う角度から過去の出来事を客観的に見るとこに気づかせてくれました。かと言ってその言葉が最初から違和感なく気持ちと重なった訳ではありません。私は父親の間違った愛情表現からこんなことになってしまっているのだ。私は父親を許してあげなければいけない。私が広い心で許すことで関係が上手くいくのだ、とずっと長い間思っていました。なので一生懸命、笑顔で接するように努めてきました。

 

でもいくら頑張っても心の悲しみは癒えることがありませんでした。いろんな本を読みました。同じような経験をされた方の本やブログなども読ませてもらいました。

 

『毒になる親』は私のバイブル本となりました。

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子どもの頃、家庭が心休まる安心できる場所ではなかった、なにか今現在生きづらさを感じる方にはぜひとも読んで頂きたい本です。読み返す度に新たな気づきがあるとおもいます。

 

父親が加害者で私は被害者、初めて「私は、性虐待を受けていたかわいそうな子供だったんだ」と気がつくことができました。ここまで心が回復し、正しい認識をもち過去を乗り越えるまでに30年かかりました。「わたしが悪かったのでなかったのだ」と自分を許すことで子どもの頃の自分を暗いじめじめした牢獄から解放させる事ができました。

 

そこから思い出したくない一生懸命忘れようとしていた過去の出来事が、忘れてはいけない出来事に変わっていきました。私は経験したことを伝えなくてはいけない。これは見過ごされてはいけない大罪なのだと言うこと。被害者が訴えなければどれだけ残酷なことか、人生を狂わせてしまう出来事なのかを加害者に理解してはもらわうことはできない。しかし残念ながら被害者は言いたくても言い出せません。自分が言い出すことで家族を苦しめ傷つけてしまう。自分さえ我慢すれば、と思ってしまいます。

 

性虐待が原因でいろいろな依存症、精神的な病を患ってしまいどうすることも出来ない方も居ます。私はたまたまアルコールを受け付けない体質でしたのでお酒飲んで気を紛らわすことができず、アルコール依存症になることはありませんでしたが、体質的に大丈夫だったら間違いなくアルコールに飲まれていたと思います。薬物も手にはいる環境ではなかったからできなかっただけで、手に入れば100パーセント現実から逃避する為にのめり込んで抜け出せなくなったと思います。その時代は携帯もインターネットも今ほど進んでいませんでしたので援助交際することもありませんでしたが、今の時代なら間違いなく自暴自棄になり、援助交際をして父親以外の人とSEXをすることで安心感を得ていたと思います。私は他の被害者の方と比べ強かった訳でもなんでもありません。たまたまが重なり運良く逃げ通せただけのことです。

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そんな環境に感謝をし私は自分の受けて来たことを公表し、被害者の方々が言いたかった苦しみや悲しみを加害者に訴えなければいけないと思うようになりました。

 

加害者は子供は嫌がってなかった、と思っています。実際は嫌と言うことが怖くてできなかった。もしくは嫌と言わなければいけないことだと知りもしない年齢だった。ということに気づこうともしていません。ただ自分の欲求を満たすために、都合のいいように相手も喜んでいたのだからと正当化しています。

 

家庭内のことは第三者が介入しにくく、被害者を助け出すことは困難です。被害者もどんなに酷いことをされても、自分の親や身内の苦しむ顔は見たくありません。親を慕う気持ちも変わらずに持ち続けているので、自分から逃げ出すこともなかなかできない。そんな状況のなかで被害者を減らすためには加害者を減らすことしかないようにも思えます。

 

性虐待の抑止力になる為、できることは何かないのかと模索する毎日に変わっていきました。
過去の出来事があって、今の私があります。被害者にしかわからないことを伝えることで、消し去りたい過去が無駄ではなかったことになると思うようようになっていきました。

 

周りの人に性虐待のことを知られるのが怖くなくなりました。

 

同じ経験をした方にはわかると思いますが、ぐちゃぐちゃにこんがらかった感情を1人でほどいていくのは永遠と思えるような、気が遠くなる作業です。でも、誰か人に話をすることで気づきがあります。アドバイスしたりとか偉そうなことはできませんが、心を寄り添わせ、一緒に考えていくことはできるのではないのか。そんな辛い経験でも人の役に立つことがあれば、意味のある経験であったことになる。という考え方に、少しづつではあるけれど、確実に変化していきました。

 

 

このブログはノンフィクションです。私と同じ様な被害に遭われた方が読まれるとフラッシュバックする内容があります。ご注意ください。

 

 

 

 

 

幼少期

わたしへの性虐待はもっと前からあったのかも知れませんが、記憶に残っているので4、5歳くらいからになります。私の家族は父親と母親、私の核家族です。

 

父親は地方の一流企業と言われている会社に勤め、母親は専業主婦です。母親は教員免許をもっていますが、父親は働くことを許しませんでした。

 

母親は経済的にも精神的にも父親に全て依存していました。どんなに怒鳴られ酷い言葉を浴びせられようが、暴力を振るわれようが父親が言うことは正しいと思っていました。まさに共依存の関係です。母親は自分を犠牲にしてでも父親に尽くすことで自分の存在価値を認めていました。

 

私への性虐待についても、自分にも非がありお父さんみたいな良い人なのにそんな行動に走らせてしまって悪かったと後悔しています。子供の頃の私の目からみても、母親は父親の言いなりになる自分の意思をもたないロボットのように見えました。しかし母親自身はそれに気づかず自分の意思で行動していると勘違いしていましたが、洗脳されているとしか思えませんでした。

 

私が言うことを聞かなければ、父親は母親の育て方が悪い、しつけができていないと、母親と私を怒鳴りつけたり叩くという暴力的なところがありました。母親はよく泣いていました。父親が怖かったのだと思います。

 

母親は私に完璧な子供像を求めて、私の下着を膝までおろし、泣きじゃくる私のお尻を母親も泣きながら叩いていました。ある時は火をつけたマッチを消して熱いうちに私の手に当てて来たりと、私が言う事を聞くまで必死になってお仕置きだと言いながら、しつけと言う名の暴力が繰り返されていました。

 

普段はすごく優しい母親がヒステリックになる様子を見るのが辛く、私がお利口にしていないと母親まで父親に叩かれてしまう。私にとって家庭はとても心安らぐ場所ではありませんでした。


父親が、黒いものでも白といえば白となりますし、家族間の許されること、許されないことも父親の気分で日替わりです。毎日、父親の顔色を伺うようになっていきました。

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そんな父親でも楽しく遊んでくれたこともあります。母親が留守の時にはじゃんけんゲームをよくしていました。私が勝つとおやつを食べさせて貰えて、父親が勝つと私の股間を舐めます。私はくすぐったくて嫌でした。でもお菓子かもらえたのでくすぐったいのは我慢しました。その行為が何なのかはわかりませんでした。母親には言ってはいけないと言われました。母親が留守のときはいつもしていました。

 

でもやはり、何か恥ずかしいことのような気がしました。母親に隠し事をしているのが嫌で、なにか悪いことをしているような後ろめたさがあって、このことを母親に言いました。母親がどう返事したのかは覚えていません。たいして気にしたような様子も感じなかったので、気にした私がおかしいのだと思いました。でもそのゲームは、母親に言ったその日からすることはありませんでした。

 

その頃、私は寝る前に父親にキスをすることを義務づけられていました。それは凄く嫌でした。父親のベタベタした顔に近づくことにすごく抵抗がありました。何度も泣いて嫌だと訴えました。母親にも助けを求めました。せめて頬で許してほしいと言いましたが、聞き入れては貰えませんでした。

 

父親は私が産まれる頃、2年ほど出張でアメリカに行っていました。そこでホームスティ先のお嬢さんが父親に寝るときに挨拶のキスをしていたそうです。その風景が印象的で家族の絆の深さを感じたので真似をしたいということでした。

 

ここは日本です。叱られ泣きじゃくりながらキスをしても、親子のよいコミュニケーションになっていないということは誰でもわかりそうですけど、父親は私がキスをすると満足そうでした。

 

母親は父親に懐かない私に、少しでもコミニケーションをとらせようとしていました。父親が早く帰ってきたときはお風呂も当然のことながら一緒に入るように決まっていました。父親に性器を強く洗われて痛いと母親に訴えました。
お風呂の中でのことはまだハッキリと思い出せていません。父親とお風呂に入るのは凄く嫌だったのですが中でのことがボンヤリとしか出てこないので書くことは控えておきます。

 

 

 

 

★たくさんの心温まるコメントありがとうございます。皆様のコメントに励まされたくさんの勇気をいただいております。お一人お一人にお返事をさせて頂きたいのですが、コメントを公開させてもらっても良いものかわかりませんのであえて控えさせてもらっております

 

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