性的虐待‥性虐待はなぜ起きる

私は実父親に幼稚園から中学2年まで性虐待を受けて育ちました。一見普通に見える家庭内で起こった犯罪。私の家庭で何が起こっていたのかを冷静に振り返りこれからの子供達を性的虐待から守ることが出来るのか、不幸にも私と同じ様な体験をしてしまった人達には何が必要かを考えて行きたいと思います。

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性虐待トラウマによる後遺症③私の場合

三十二歳

復帰を目指して雇ってもらえる美容室を探していると、以前勤めていた美容室が支店をだすので店長をして欲しい、という話を頂きました。悩んだ末、引き受けさせてもらうことにしました。

 

一年前に仕事を辞める時、うつ病の影響からお客さんと接するのが怖くなっていたことと、一年間のブランクとで最初は毎日が不安でしたが、そんな気持ちは隠し、とりあえず三年は岩の上にへばりついてでも一生懸命頑張ろうと決めました。

 

少しづつお店の売り上げもあがっていき、それに比例するように、私は少しづつ自信を取り戻していきました。一年後には以前の自分に戻り、うつ病は完全に治りました。お店を軌道に乗せることができなかったらと思うとゾッとします。この時は本当にお客様に助けていただきました。それに仕事に集中してのめり込めたのも、母親が子ども達の面倒をみてくれたおかげです。子供達が風邪を引いて熱を出した時も、母親はいつも一生懸命看病してくれました。

 

子ども達はすくすく素直に育ちました。異性の兄弟ですがすごく仲が良く喧嘩もするけど、いつも一緒に遊んでました。

 

娘小学3年生

ショッキングなことが起こりました。娘が私に「おじいちゃんの家で寝てたら、なんかお腹の辺りが温かいと思って目が覚めたの。そしたらおじいちゃんがガサガサって離れていくの」と言うのです。

 

私は息が出来ないくらい怒りと憎しみがこみ上げてきました。

 

それは私が小学生のときに見た光景と同じです。大人になっても何度も何度もフラッシュバックで見て吐きそうになった光景です。その時の手の生温い残留感が昨日のことのように感じて、煮え繰り返る怒りや悔しさでいっぱいいっぱいになった光景です。

 

精一杯の冷静を装いながら「そんな風に思ったのはこれが初めて?」と聞き返しました。娘は前にも一度温かいと感じるときがあったと言うのです。

 

わたしは娘におばあちゃんかお兄ちゃんが一緒のとき以外はおじいちゃんちにいったらダメ!と言いました。娘は理由を分からないながらもわかったと約束してくれました。
お兄ちゃんにも、妹と出来るだけ一緒にいて欲しいと頼みました。

 

母親にも話があるからと二人きりの時、娘から聞いたことを教えました。蒼白な顔で信じられないと言いながらも話を聞き、責任をもって孫に辛い思いをさせることがないように、常に様子を気にかけると約束してくれました。あまりのショッキングな出来事でどうしたらよいのか考える時間が欲しかったので、娘が私に相談してきたことは父親に黙っていて欲しいとお願いしました。

 

私は引っ越しをするしかないと思いました。(私達親子の家と実家は隣同士です)

 

それから2、3日後の夜、父親が怒鳴りながら物凄い剣幕でわたし達の家に入ってきました。娘の名前を叫びながら一階のリビングにいる私のところへ来ました。子ども達はそれぞれ2階の自分部屋に上がっていました。冷めた口調で「もう2階で寝てるけど、何か?」それから父親は罵声をあげながら2階に上がっていきました。わたしも慌てて2階に後を追って駆け上がりました。子ども達は声と物音で廊下に出てきたものの、あまりにもの凄まじい父親と私の怒鳴り合いにびっくりして部屋に入り、泣きじゃくってしまいました。

 

階段を上がりきったところで揉み合いになり、父親と目が合いました。その目は真っ赤に見開かれ、そのつぎの瞬間、向かい合わせになった私の両肩をつかんだとおもったら階段の下に向かって突き落としました。

 

父親はそれから気が済んだのか、何か捨て台詞をはきながら、自分の家に戻っていきました。私は頭を壁に打ちつけ、しばらく状況が飲み込めず、呆然と尻餅をついた状態で座り込んでいました。

 

言わないようにお願いしたのに…
わたしは父親を殺してやろうと思いました。凶器を持って実家に向かおうと思いましたが、わたしが捕まってしまったら娘を守ることが出来なくなると思い、なにも持たずに隣の実家にいきました。

 

そこでは目を疑う光景でした。父親と母親は何もなかったかのように笑いながら会話をしていました。母親はまたしても父親に言いくるめられていました。「その年頃になったら女の子はみんなそんな妄想をするのね。性が目覚めはじめて」って…笑いました。

 

なんでわたしはこの二人の子供に産まれてきたのだろうかと・・・

 

どこまで私を傷つけたら気がすむのでしょう。私の一番大切な娘に私と同じ苦しみをまた味あわせることが何故できるのでしょうか。
そんなことがあったとしたら私は自分の時よりも辛いです。間違いなく父親を殺すでしょう。

 

私の中で、父親も私に性行為をしたことを後悔していて、ずっと私と同じように苦しんできたに違いない、母親も私と同じように毎日無理をして、笑顔で自分の悲しみを隠して生きているのだろう、だから私は許して過去を忘れる努力をしなければ。と思い生きてきました。

 

そんなことは私の妄想で、今回のことで父親は後悔などしていないし、母親は無理に笑顔を作って頑張ってきたわけでもなかったことが証明されました。私の独りよがりな妄想でした。自分が親に愛されていないと思うことはとても辛く、なかなか受け入れることのできないことです。辛いからといって、私は現実を受け入れず、逃げていました。私はもっと警戒するべきだった。大切な娘を危険にさらしていた。どうして子供の頃と同じように信用してしまっていたのか、と後悔しました。

 

馬鹿なわたし

この時上の子は小学5年。引っ越ししようというと、嫌がりました。学校が変わるのが嫌だと言いました。小さい頃から引っ込み思案な子で、新しい学校で友達が出来るのかどうか、私も心配でした。


下の妹は引っ越しに興味を持ちました。してみたい、という気持ちもあったみたいです。お兄ちゃんにはじっくりと言い聞かせるつもりで、まずは物件を探さなくてはと思い、いろいろ調べました。どうにかやっていけそうなところが何軒かありました。

 

子ども達はなにも事情がわかっておらず、「お母さんが引っ越しするって〜」と無邪気に母親に言ってしまいました。

 

母親は引っ越しに反対しました。私が必ず娘の側にいるから、お願いだから引っ越しはやめて欲しい。と言われ、馬鹿なわたしはまた信じてしまいました。

 

何回も信じて何回も裏切られ、その度に傷つき、それでもまた信じて…

 

それからひと月後くらいでしょうか。わたしが帰ると娘と父親が2人で実家のリビングにいました。母親は買い物に出ていて、お兄ちゃんは友達と遊びに出ていて。結局こうなるのです。喉元過ぎれば熱さ忘れるということでしょうか。

 

私一人がいつも一人芝居をしている感じです。娘にまた何かあったら絶対私に教えてね、と言うことくらいしかできませんでした。

 

娘にはそれ以上のことはありませんでした。

 

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先日、私とおじいちゃんのことを娘に打ち明けました。娘に三年前にすでに知っていた、大学一年の時、私の手紙が目につき、読んだと言われました。私が同じ被害に合った方の本を読み、そちらへ手紙を送ろうと書いたものでした。知ったときに受けた娘の気持ちを想うと、本当にこんな母親でごめんなさいと謝ることしかできません。三年も前から知っていて、言わずにいてくれたこととに感謝と成長を感じて、胸が熱くなりました。

 

 

 

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性虐待トラウマによる後遺症②・・・わたしの場合

三十歳

 

子ども達が少し手を離れ上の子が7歳、下の子が5歳のころわたしは恋をしました。メル友募集からメールの交換が始まりました。年下の男の子です。わたしはそのとき三十歳。その男の子は二十歳でした。相手の人はとても十歳も歳下とは思えない落ち着いたメールでした。

 

たわいも無い日常のことをメールしていくうちに淡い恋心のようなものが芽生えてきました。どちらからともなくメールの内容が次第に恋人同士の会話のようなメールに変わっていきました。毎日、何通もメール交換しました。メールの返信が遅いとき私が相手をなじるような問い詰める文面のメールを2、3通続けて送ったときも相手の返信は怒ることなく

「ごめんね、仕事で返事遅れたよ」

「こっちこそ問い詰めてごめん」

「返事が遅れた俺が悪いんだから謝らなくていいよ」

と私のわがままに腹を立てることなくメールの上のことだけですがその都度私の承認欲求を満たしてくれました。私は今までお前が悪いとしか言われたことが無かったので初めて自分が認められたような気がして彼に夢中になっていきました。

 

メールの交換を始めて二ヵ月位経った頃どんな人なのかすごく会ってみたくなり衝動的に新幹線に乗って会いに行ってしまいました。実際に会ってみると全く目の前の男の子に恋心は沸きませんでした。メールのイメージとは全然違うまたあどけなさが残る男の子でした。職業柄、初対面の人と一対一で話すことは慣れているのですが何をしゃべればいいのか困り凄くぎこちない会話になってしまいました。私はまた一人ぼっちになったような悲しい気持ちのまま新幹線に乗りました。帰りの新幹線の中いつものような包容力のある文面のメールがきました。その時私は凄くホッとして涙がこぼれました。わたしは本人でなくメールに恋をして依存していたことに気がつきました。

 

それからもまた毎日メールの交換をしました。半年ほどしたある日急にぱったりとメールがこなくなりました。リアルな彼女が出来たかなにか理由があったのでしょうがぱったりと連絡が取れなくなってしまいました。彼からのメールに依存していた私はメールを毎日待ちました。過去のメールを何回もみてどうにかして心を落ち着かせたかったけど、もう彼からのメールが来ないと思うと涙がポロポロ落ちてきます。

 

このことをきっかけに私はうつ病になりました。今まで甘えることを知らずに生きてきてここにきて甘えることを知ってしまいその対象のメールが来なくなり孤独に打ちひしがれてしまいました。今まで我慢してきたことが一気に溢れ出してしまいました。

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うつ病

 

私の思考は停止しました。なにも手が着けられず毎日当たり前に作っていたご飯が作れない。本を読んでも始めの1行から進めない。テレビの内容も理解できない。毎日が無気力で朝おきて何から初めて良いのかもわからなくなりました。普通の毎日の生活がもやの中にいるように見えなくなっていきました。夜もまともに寝ることが出来なくなり夫からの要求に応えられなくなりました。

 

常に孤独で子供達に愛されてることも忘れかけていました。胸の奥が重く苦しく死にたいけど、死ぬ方法も考え付かない何もしたくない。病院に行かなければと思いましたが一人で病院に行く気力もなく母親に「私、うつ病かもしれないので病院に連れて行って欲しい」と頼みました。
うつ病とは気持ちの持ちようでどうにでもなること。自分がうつ病だと思えばうつ病だし・・しっかりしなさい。」

「しっかりしたいけど、未だに過去の父親との肉体関係が私の頭から離れずその辛さから抜け出す方法がわからない。私も誰かから愛されたい」と母親に気持ちを打ち明けました。

 

その時、母親は初めて聞いたようなリアクションでそんなことがあったのかと驚きショックで打ちひしがれた様子を見せました。今は父親が仕事で大切なプロジェクトを任されているからそれがひと段落したら別居して私達三人(私と息子、娘)と一緒に生活を始める。今まで出来なかったあなたへの愛を償う。と言い出しました。

 

私はその様子を見て拍子抜けしたような感じになりました。中学生の時私が母親に打ち明けたときは私の言葉が足りずほとんど伝わって無かったのだろうか。私は母親に裏切られた気持ちを持ったが母親は何があったのかを知ることが出来ずにあの時は離婚をしないと言ったのだろうかとやっと母親の愛情を見たような癒された気持ちになりました。

 

しかしまた次の日から何も聞いていないような態度でそれ以来、別居や離婚などの話は一度も母親の口からは出ることはありませんでした。

 

私もうつ病になることは何処かで恥ずかしくいけないことだと思っていたので病院へ行くことは諦めました。

 

晩ご飯の買い物に行ってもメニューが思いつかず普通なら30分程で済ませれていた買い物が一時間お店の中を歩き回ってもまだ買い物かごには何一つ入ってないような始末です。

 

夫に対しては思いやりの気持ちが持て無くなり価値観の違いなど全てにおいて嫌になってしまいました。三十一歳のとき子供達二人は私が育てること約束をして離婚しました。

 

結局、私は夫に体調が悪いことも子供の頃のことも相談出来ないまま本当の自分を出す事なく別れました。

 

仕事もやめました。両親が「一年間、生活費はみるから子供達の為に家にいなさい。子供達には離婚して寂しい思いをさせたのだから」と言ってくれました。新しい職場を探す気力が沸き起こる精神状態では無かった私には感謝しても仕切れないような話でした。

 

休養出来たお陰で私のうつ病は一年間かけて少しづつですが良くなっていきました。一年後には仕事を探そうという気力も湧いてきました。

 

一年間仕事も行かずに家族三人生活出来たのは父親の金銭面の協力があったからです。

 

うつ病とは本当に恐ろしい病気だと思います。自分の気持ちや意思ではどうしようもない無気力なダルい朝。夜には少し回復して次の日こそは頑張れそうな気がするのですがまた朝になると何も手をつけれなくなってしまう。離婚した時点でまた次の仕事をみつけて新しい環境に気を使わなくてはいけなかったのならこんなに早くうつ病からの回復は無かったと思います。

 

金銭面の心配も無く子供達と過ごせれた一年間は紛れもなく父親のお陰でした。

 

父親へ対する笑顔も本物となっていきました。やっぱり父親の過去の行動は私への愛情表現を間違えてしまったゆえの愛だったのだ。誰にでも過ちはある。私が許してあげるべき事なのだと・・・

 

 

 

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性虐待トラウマによる後遺症(PTSD)わたしの場合①

私は父親に幼稚園から中学まで性虐待を受けていました。子供にとって自分を扶養し、愛情を与えてくれるはずの立場の人から虐待を受けてしまうと、その時ばかりか大人になっても長い間後遺症に苦しむことになります。

 

私も例外ではなくヒステリック、摂食障害、うつ病、フラッシュバックとPTSDに悩むことになりました。

 

 

再生

高校に進学して環境が一変しました。今までの友達は同じ高校には進学せず私は新生活をスタートさせました。

 

「メソメソしないで前を向いて歩きなさい!」
「悲しい事があっても笑顔でいなさい」と小さな頃から教えてくれていた母親の言葉を思い出しました。
泣き疲れた鏡の中の私はブスがよりブスになっていました。不幸そうな暗い顔。無理矢理笑って見せましたが、その顔は口がへの字のまま引きつったいびつな笑顔でした。周りの人に私の暗い部分を知られないために笑顔の練習をしました。割り箸を横にくわえて口角を上げる練習を毎日鏡に向かってしました。猫背になってどんよりうつむいて歩くのをやめるために、意識をして顎を上げ、前を向くように努めました。

 

親から離れて生活するためには、私の世界を作らなければいけない。どんなに辛くても苦しくても、夜になりまた明日がくる。生と死のどちらかしか選択肢がないのだから、死を選べない私は当然残された「生きること」から逃げられない。父親のことは大嫌い! あんな汚い人に自分の人生を狂わされてたまるものか! 殺してやりたいけど、殺したら私が刑務所に入れられてそんなのおかしな話だ!そんな馬鹿なことはするな!と言い聞かせ、私は前を向く決心をしました。所詮、親も他人。自分ではないのだから私がどんなに傷つこうとわかりっこない。事実、あの時以来、そのことには一度も触れることなく何事もなかったように、以前と変わらず母親は父親を慕っている。母親から辛そうな様子はまったく感じられませんでした。

 

そんな母親に私も明るく接するように努めました。このまま私さえ我慢すれば、周りの人に気づかれることはない。私は不幸を他人に知られてはいけないと思い、精一杯の強がりの笑顔で元気な自分を演じながら一日一日を消化していきました。

 

高校一年の終わりに友達の紹介で彼氏ができました。私は父親の行為がどこまでのことだったのか、確かめるためにセックスをしました。本当ならこの人が初めての人になるはずだったんだなぁ、と私の処女は父親に奪われていたことを自覚し、彼には以前に付き合っていた彼が初めてだった、と嘘を言いました。現実がわかってしまった悲しみと共に、父親以外の人とセックスをすることで普通の女の子に少し近づけたような安心感もありました。


笑顔も自然に作れるようになりました。高校を卒業するまで3年間、この家での生活を我慢すれば自由になれる、と自分に言い聞かせて、なんとか卒業まで通うことができました。

 

卒業と同時に大阪で一人暮らしを始めました。大阪に出た私は職安に行き、美容室に就職が決まりました。高校卒業してすぐの4月に、就職先も決めず面接に来た得体の知れない私をとやかく事情を聞くこともなく、快く雇って下さったオーナーに感謝します。

 

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バブル真っ只中で、美容院はお客様で連日ゴタ替えしていて、朝から夜まで忙しく働き、営業時間が終わってから技術の勉強や練習を夜中までして、一日があっという間に終わり、週に一度の休みも普段の疲れから昼まで寝て、夕方に起き夕食を食べてまた寝るという生活になりました。

 

父親のことを悩む時間も減っていきました。


一人暮らしをはじめてすぐに身長156センチ48キロあった体重は一気に40キロを切るまでになりました。過食しては吐く摂食障害になりました。摂食障害は子供の頃、性虐待を受けていたトラウマの後遺症(PTSD)の一つであることを最近知りましたが、当初はそんなこととは知らず仕事のストレスか何かだと思い込んでいたのと、つきあっていた彼(後の旦那さん)が極端に細い女性がタイプで、痩せたことに喜んでいたことなどもあり、病院に行く事もせず、慌ただしい毎日に自分の身体を気遣う余裕もありませんでした。二年間くらい摂食障害の症状は続きました。

 

確かにこの頃は骨と皮だけのような見た目になり、病気にかかりやすい体質になってしまっていたと思います。よく熱を出していました。


でも私には、そのくらい急激な環境の変化が必要だったのだと思います。県外に出て仕事をして自分の力で生活をしないといけない環境に自分自身を追い込むことで、必然的にいろいろと考える時間がなくなりました。父親とのことを毎日忘れることはできませんでしたが、少しづつ過去のことにはなっていきました。

 

彼とは週に二回程のペースで会っていましたが、会うと喧嘩ばかりしていました。私が彼の気持ちを信用しきれず不安になり、相手の気持ちを逆なでするようにワガママを言って、応えてくれないことにヒステリックになっていました。そのことがいちばんの喧嘩の原因だったと思います。今になれば冷静に自分の悪いところもわかるのですが、当時はそのことに気づくことができず、彼には申し訳なかったと思います。

 

お正月休み、お盆休みには実家に帰りました。実家に帰り、父親の顔をみると気持ち悪く思いましたが、母親に会うことは嬉しく、いろいろな大阪での仕事や私生活の話をしました。父親には相変わらず笑顔で自分の気持ちを隠し、明るい娘を演じ続けました。父親の機嫌を損ねないように話を適当に合わせることもできるようになりました。


二十歳

その頃、父親から母親伝いで手紙をもらいました。内容はわたしに対する謝罪の手紙でした。わたしが可愛かったのでいきすぎた愛情表現をしてしっまた。と書いてありました。
詳しい内容は書かれていなかったので、なんかはぐらかされているようで、納得のいくものではありませんでした。

 

それでも許そうと思いました。恨み続けることは、そのことをずっと忘れないことになると思いました。許せば忘れる事ができるのかと…相変わらず演技で笑っていましたが、許そうと思い出した頃から、父親のことが少しかわいそうに思えてきました。

 

間違ったことをしてしまった父親も、私と同じように悩み苦しんだのではないかと考えるようになりました。
母親も苦しみながらも毎日忘れたふりをして、私のように普通を演じていいるのではないかと思うようになっていきました。


そんな風に考えるようになり、少し心が救われました。自殺願望はありながらも生きてることが少しだけ許されるような気がしました。

 

私は二十歳で結婚をしました。

あたたかい家庭に小さい頃から憧れがあり、結婚願望は強かったと思います。

 

主体性のない母親を見ながら育ったので、そんな女性にはなりたくないと思いながらも、夫婦生活は女性が我慢することが当たり前だ、と思ってしまっていました。不満はたくさんありましたが、良い妻であるように私なりに精一杯努力しました。 

 

たまに見せるヒステリックな私に(普通の神経の持ち主夫だときっと困惑させたと思いますが)人の事を気にするタイプでない夫は知らぬ顔で無視をしてくれていました。へこたれない夫で助かりました、笑。

 

相手の気持ちを気にするタイプの男性でしたら私のヒステリックに耐えかねて、結婚生活は一年と持たなかったと思います。

 

結婚二年目に男の子、さらに二年後に女の子が産まれました。子供の母親になり、子供に必要にされることで、初めて生きたいと思いました。自分の命を、子供達の為に大切にしようと思いました。こんな醜い私でも子供達は私を好きだと言ってくれたことが人生の励みになり、子供達を責任を持って育てることが人生のぶれない軸となりました。子供達がいなければ自分を見失い今まで生きていた自信はありません。

 

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私は子供達にニ、三度、しつけと言いながら手を挙げたことがあります。その時の感情は子供のためのしつけというより、自分の言うことを聞かないことに腹が立ち、気がつくと手を挙げていたと言う感情の方が大きかったと思います。すべての人がそうとは思いませんが、子供に体罰を与えるときは、そんな親の自己中心的な自分の苛立つ感情を抑えられず、幼稚な部分が子供に向けられていることがほとんどなんだと気がつきました。

 

私の父親も母親も、すごく弱い人間だったと気がつくことで反面教師にし、それ以来、子供に手を挙げることはしませんでした。腹が立ち、感情的になりそうな時は大きく深呼吸することを心がけました。それでもやはり子育ては大変なもので、全然思うようにはいかず声を荒げることもありましたが、私には反面教師がいるお陰で、まずは子供の立場でどうして言うことが聞けないのか、子供の気持ちを考えることを心がける大切さに気づくことができました。


子供の頃の理不尽な経験は悪いことばかりではありません。子育てに悩んだ時は自分の辛かった経験を思い出して、それと反対のことをすればいいのですから、笑。

 

でも残念な事ですが、負の連鎖は必ずあると思います。でも負の度合いを減らすことは可能だと思います。

 

私は三十歳からうつ病になってしまいました。それから二年間は子供のことがおろそかになっていたと思います。寂しい思いをさせてしまったと反省しています。私がうつ病になってしまったことで、離婚をしてしまいました。子供には大きなショックを与えてしまい、負担をかけてしまったことが次の世代に繋いでしまった私の家庭の負の連鎖だと思います。

 

 

 

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性虐待③・・・私の家庭でなにが起こっていたのか

 

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中学生

中学生になり好きな男の子もできるようになって、少しづつ自我が目覚めてきました。考えることを辞めていた父親との関係に不信感がどんどん募るようになり、勇気を出して友達にそれとなく聞いてみました。友達はすごく驚いた顔をして「今!なんて言った?!」と聞き返され、私もあわてて「なんでもない!じょーだん!」と言ってしまいました。でもその友達の反応で、これはとんでもないことかもしれない、と感じました。

 

頭ではわかっていても、なかなか嫌だと言うことができませんでした。父親に嫌だと言うことで、自分の居場所がなくなると思いました。きっと母親も知っている。私のことを憎んでいるに違いない、私は一人ぼっちになってしまう、という恐怖になかなか勝つことができませんでした。逃げ出したいのに、私には一人で生活するすべがないことを恨みました。今なら児童相談所に行くことも考えられたと思いますが、その当時は何処を頼ればいいのか調べることもできず、警察にいけば家族がばらばらになってしまうんじゃないかと思い、我慢するしか生きる方法がないようなに思えました。行為に嫌悪感をいだきながらも触られることで気持ちよく感じ、場に流され許していたところもありました。

 

その頃、保健体育の授業で性教育があり、初めて自分の身体の構造を知りました。お尻には尿道、肛門の他にもう一つ膣口という穴が自分の身体にあることを知りました。そこに男性の性器を挿入することで赤ちゃんができることがわかり、私はどこまでのことをしてしまっているのかわからず、パニックになりました。されるがままだった自分が愚かだった、と自分自身を責めました。

 

私が中学ニ年の夏、家の増築をするからと六畳のプレハブ小屋で二ヶ月程生活をすることになりました。親子三人で川の字になって寝ました。そんな状況でも父親は我慢できないらしく、行為をしてきました。母親が気がつかないわけがない。なのに何も言わない母親は、大人なのにどうしてそこまで自分の気持ちを言えず我慢するのだろう、惨めな人。こんなふうにはなりたくない。という思いと、こんな状況下でも行為を求める父親に、さげすんだ感情がはじめて湧いてきました。私は大人を見下すようになっていきました。

 

学校の先生も両親もあなたのために言ってあげていると恩着せがましく言いながら、結局は自分の都合でしか物事を考えられない、自分に不利益なことはごまかしてでしか生きられない生き物なのだ、私は絶対そんな大人にはなりたくたい! 私の気持ちなど誰にもわかるはずがない。周りの大人はわかる努力もしようとしない。中学を卒業したら、仕事して自立しようと決心しました。二年の終わりから生理が始まりました。

 

やっと父親に「ヤメて」と言えるようになりました。私は両親がいなくても生きていけると思うようになり、父親を拒絶することができるようになりました。父親はなかなか諦めてはくれませんでした。私が寝ていると部屋に忍び込んできては触ってきましたが、私が怒ると何もしてない、ととぼけるようになり、そんなことを繰り返しながら、父親と私の間違った関係は終わりました。

 

同時に今までしてきたことがどれだけいけないことで取り返しのつかないことなのかもわかるようになっていきました。


頭の中がぐちゃぐちゃで、もう処女ではないかもしれない、大切なものを醜い父親に渡してしまっているかもしれない。恐らく最後までしているのだろう、と後悔と絶望と羞恥心、自分への嫌悪感、負になるすべてのものが、一気に私の上にのしかかってきました。毎日、私のような腐った人間は死ななければいけないと思いながら、怖くて死ねない自分を責めました。こんなに死にたいのに、ご飯を食べる自分を軽蔑しました。

 

すべてのことが長い悪夢であってほしいと毎晩泣き疲れて眠り、気がつくと朝がきて、現実に連れ戻され、起きてしまったことは現実なんだと再認識させられ、逃げ場のない現実に心はズタズタに切り裂かれていきました。


どうして私は嫌だと言わなかったんだろう。どうして父親は私にそんなことをしたのだろう。どうして?どうして?どうして?とどうしてが何千回も何万回を頭の中をグルグルと回って頭が痛く吐き気がしました。

 

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学校生活も一変しました。それまでは弱いながらもテニス部で頑張っていましたが、部活も休みがちになりました。勉強もまったく手がつかず、成績はどんどん落ちていきました。元々、親に喜んでもらいたくて頑張っていたので、頑張る目的がなくなりました。

 

言葉遣いから、つきあう友達から、なにもかも変わっていったと思いますが、周りの大人は誰一人、私の変化に怒るばかりで理由を尋ねることはありませんでした。


父親に私の生活態度を注意されると、自分のしてきたことを棚に上げ、私にとやかくどうして言えるのか、と腹が立ちました。父親が手をあげると、私も父親に掴みかかるようになり、母親がどうしてそんな態度をとるのかと叱ってきました。家庭内暴力を繰り返しました。

 

母親には早くから相談したかったけど、母親がもし知らなかったのなら私が言ったことで母親を傷つけてしまう。という思いがあり、なかなか言い出すことができませんでした。


そんな父親と母親と私の言い争いで家庭は崩壊寸前でした。
どのみち崩壊するのなら母親に謝り、きちんと話をしてわかってもらわなくてはいけない、わかってくれるはずだと思い、言う覚悟をしました。すべてを話せば当然、私の味方をしてもらえると思っていましたが、これは私の甘い考えでした。

 

父親は自分は家を出て一人暮らしをすると言いました。私はこれでやっと安心して生活が送れる、これからは弱い母親を私が守っていこう。母親と二人で幸せになろう。やっと悪夢から解放される。これですべてが終わりになるのだ。と、母親から父親を引き離してしまう代わりに私が母親を幸せにしようと誓いました。

 

ところが母親から「私はお父さんと離婚する気も離れて暮らす気もまったくない」と言われてしまいました。

 

母親はあっさりと父親を許してしまいました。
「お父さんと話をしたけど、あなたが誘ったらしいじゃない。どうしてそんなことしてしまったの? 私も大学生の頃、一度、自慰行為をしてしまって、そのことを今でも恥ずかしく思い、後悔してるの。だから誰にでも間違いはあるし、人には言えないことの一つや二つはあるのものなのよ。早く忘れなさい。お父さんはあなたが可愛くって、あなたが他の男性を誘うようなことがあってはいけないからと、自分がその役を仕方なくしたって。でもそれであなたが傷ついたのならごめんなさいって言ってたわよ。今回のことがお父さんじゃなく、他人の男の人だったらもっと大変なことになっていたわよ。今回のことは愛があってのことだから、お父さんの気持ちもわかってあげて。許してあげて。この事が世間にバレてしまうと家族がバラバラになり、あなたもお母さんもご飯を食べられなくなるから黙っとくのよ」私が予想していた結果ではなく、父親を擁護する言葉でした。

 

確かにそこには愛があったと思います。でもその愛は、娘を思う親の愛ではなく、父親の自分に対する自己愛。自分の性欲を満たすためのものでしかありませんでした。中学生の私にはそんな客観的な判断などできず、母親の言葉をただ聞くことしかできませんでした。

 

父親自身は私に誘われて仕方なく行為をしたと思っている。こんなに辛い思いをしていることすべてが自分の行動からくることだったのだ。いちばん愚かな人間は、私だったのだ。地獄に突き落とされました。この時の母親の行動と言葉が、この先何十年も苦しみから抜けられない大きな要因となりました。


私が唯一甘えられる大人は、母型の祖母でした。私は祖母に泣きじゃくりながら訴えました。祖母を悲しませることへの罪の意識から内容の半分も言えませんでした。大正生まれの祖母に当然わかってもらえるはずもなく、私が怖い夢を見たのだといわれ、話は片づけられてしまいました。

 

生きることへの絶望感で息をすることがやっとだった私には、母親の言葉を冷静に対処できる観察力も洞察力もありませんでした。沸き起こる感情をうまく伝える言葉を知らなかった15歳の私は、どう説明していいのかわかりませんでした。父親だけに責任を押しつけられない私も共犯者だ。だから父親のしたことは忘れなければいけない。許さなければいけない。確かに父親は無理矢理ではなかった。私は父親に生かせてもらう代わりに、長い間身体を許してきた娼婦だった。もっと早くに嫌と言って家を出る勇気が持てなかった自分への惨めな気持ちや怒りや悲しみに手を余し、毎日死にたいと思いながら泣きました。

 

この時、私の心は性的虐待によって殺されました。

 

 

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性虐待②・・・私の家で何がおこっていたのか

 

 

 

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学童期小学1年〜4年

その頃、父親は私の裸の写真を撮りたがりました。この年齢になると裸になるのが恥ずかしい事だとわかっていたので凄く抵抗しました。声を震わせながら「お願いだから許して下さい」と何度もお願いしました。海の中の岩の上や山の草むらの中でポーズを取らされ写真を撮りました。子供の頃の身体は汚れなく綺麗だから写真に残しておきたいと言っていました。なぜか家に外人の女の子達の裸の写真集が何冊かありました。その写真集の中の女の子のポーズを真似するように指示されました。その写真の中の少女達は爽やかなイメージはなくきついメークをして子供らしいとは言えない異様な雰囲気でした。後から母親に聞いたのですが写真集は書店から父親が買ってきたものだと言っでいました。その頃は子供の裸の写真集は合法だったのでしょうか?だとしたら驚くべきことです。1980年前後の日本は児童性愛を容認していたということです。

 

《大嫌いだった頃の写真を見ることは辛くアルバム開くことが怖かったのですが、三十年経った今、ようやく実家から持ち帰り小さい頃の自分を見る事が出来ました。そこには私が想像してた女の子よりもずっと可愛く(顔が可愛く思ったのではありません笑。)無邪気な笑顔で写っていたことに嬉しさと切なさを感じました。もっと早く子供の頃の自分を愛してあげることが出来なかったことに胸が痛くなりました》

 

この頃も理不尽なしつけという名の暴力や罵声は続いていました。私は橋の下で拾われた子供だとよく冗談混じりに父親からからかわれていました。私は本当に拾われて来たんじゃないかと思うようになりました。私には本当は優しいお父さんとお母さんにいて必ず迎えに来てくれる。そうあって欲しいと願うようになっていきました。何度も母親に確認しましたが、その度にあなたは私が産んだ子だと言われました。

 

父親が仕事から早く帰った日はやはりお風呂は父親と入るように決まっていました。いつまで一緒に入らなければいけないのだろうと思うと悲しくなりました。

 

勉強もスポーツも周りの子に負けては両親をがっかりさせてしまうと思い自分なりに一生懸命頑張りました。毎年、学級委員長にも選ばれそれを両親に報告すると両親が誇らしげでまた喜ばせることをしなくてはと頑張りました。頑張ってお利口にすることで、この家庭での私の居場所を確保できると考えていました。

 

 

小学5、6年

夜、寝ているとなぜか人に触られている感じがして目を覚ますと手の温もりが身体に残っていてる。横では父親が眠っている。そんなことを繰り返しながら行為は少しづつエスカレートしていきました。

 

初めは私の勘違いかな、と思っていました。でも確実に胸や下腹部を触られた感じがあり気持ち悪く思いました。ある時寝たふりをしているとやっぱり父親の手が私の胸や下腹部を撫でていました。私が目を開けるとその手はさっとひっこめられました。私は寝返りを打ってみたりしながら嫌な気持ちを誤魔化していました。嫌とは言葉にすることは出来ませんでした。

 

何度もそんなことがあるうちに私にとっては特別なことでは無くなっていきました。次第にいつも好き放題に振る舞う父親がこそこそしていることに腹が立つようになっていきました。

 

私は心は完全に父親に支配されていました。父親は独裁者でした。教祖のように父を慕う母親。私は心は例えるなら地下に住む奴隷でした。地下は寒く薄暗くジメジメしておりたくさんのネズミ達が這いずり回っています。その隅っこで私は膝をかかえて小さくうずくまっていました私の発言権などはまったくなく父親の気分で地下から時々地上に出してもらえそんな日は眩しい世界に心弾ませました。父親の考えと違うことを言ってしまったり父親の機嫌を損なう出来事ことがあれば途端にまた地下に戻される。そんな環境で毎日、父親の顔色を伺いながら父親との距離を測りながら生活していました。それは母親も同じでした。母親はよく地下に暖かい出来立てのおやつを持ってきてくれました。でも決して地下から出してくれる事はありませんでした。

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そんないつも自存心やプライドが高い傲慢な父親が私の身体に触れるときは私の様子を伺い私の寝ているのを確認し触ってくることに苛立ちを感じました。私が無防備なときにするのは何故なのだろうか、常に正しい父親が私にしていることはそんなに秘密にしておかなければいけないことなのか。いつも私に「お前の為のしつけだ」と言って体罰を加えていた父親が私の為にならないようなことをするはずはない、堂々と毅然な態度ですればいいことではないのか。と。

 

無理矢理ではありませんでした。
私が身を差し出すかたちでこの時は生涯自分が苦しむことになる大変なあやまちであることとは知らず日常化していきました。気がつけばいつの日からか最後の一線も超えることになってしまっていました。

 

当時、平屋で台所の隣がわたしの部屋でした。私のベットに父親は仕事が早く終わると入ってきては私の体を舐め回し満足そうに優しく声をかけてきました。今までの暴力的で言葉汚くののしる父親とは別人でした。私はこんなことは大したことではないと自分に言い聞かせ目をつぶり父親がやめてくれるまで我慢しました。気持ち悪くくすぐったく何をされているのかよくわかりませんでした。

 

でも嫌に思いながらも私はこれで良かったのだと思うようになっていきました。これでやっとこの家の中で安心して生活できる居場所を作ることが出来たと思いました。今考えると本当に単純で馬鹿だったと思いますがその当時の私には父親の機嫌をとる事が最優先と思い私自身も自分の中での善悪の判断より父親に従う事を選んでしまいました。私の身体も少しづつ変化していき恥ずかしいことですが父親との行為によってオーガニズムも感じるようになってしまいました。

 

いつものように父親が私の布団に入って私の性器を舐めているとき母親が部屋に入って来たことがあります。

母親はカッとなった悲鳴にも似た声で「何をしてるの!!」と言い部屋を飛び出して行きました。父親は慌てて身なりを整え母親を追いかけて私の部屋を出て行きました。私は心の中で何度も母親に謝りました。
しばらくすると父親が戻ってきました。私が「お母さんは何て言ったの?」と問いました。私がお腹が痛いと言うので見てあげてたと言ったら信じてくれたと。そんな子供じみた言い訳が通じたのかと信じられませんでした。母親はこの時から知っていたのでしょうか。

 

母親が留守のときはいろいろな部屋で行為をしました。ある時、母親のドレッサーに裸になって四つん這いになっている自分の姿が映りました。鏡の中の女の子は冷ややかな眼差しで私を見ていました。私は見ないで欲しいのに女の子は私から目を反らせてくれませんでした。もう一度、鏡全体を見返しました。私のお尻の背後に父親の姿も映っています。そこにはこの世のものとはおもえないような汚らわしい醜い光景が写っていました。身体の内側から込み上げてくる憎悪に胸が苦しくなりました。鏡の中の女の子が自分なのだと理解するのにしばらく時間がかかりました。

 

私自身、成長とともに少しづつ変な世間とずれているような違和感を感じるようになってきました。父親に何度もこれは間違った事じゃないのかと聞きましたが、父親に他の家でもよくあることで特別なことではないと言われて私も考えることが面倒くさくなっていきました。今更、父親から逃れられることも出来ない諦めと他の子もしているのだったら仕方のないことなんだと言い聞かせている部分と母親を裏切っていることで母親にも頼ることが出来ない孤独感で引き返すことが出来なくなっていました。何もより厳格な父親がそれほど悪いことをする訳がないと信じていました。

 

 

親友のお父さんが病気で亡くなりました。私は委員長だったのでクラスの代表で告別式に参列させてもらいました。親友が凄く落ち込んでいるのに私は優しい慰めの言葉をかけてあげることがで出来ませんでした。告別式に参列させてもらった私に「来てくれてたよね、ありがとう。」と言ってくれた彼女に「学級委員長だから仕方なく行った」とか、私の家族を羨ましがる言葉には「父親なんか必要ないじゃん。」と酷いことを言って口喧嘩になりました。そんな酷いことを言ってしまった私に今も友達でいてくれている彼女に感謝しています。最近ようやく過去の性虐待のことを話し当時のことを謝ることが出来ました。

 

小学生だった彼女には親友の思いやりのない言葉は人生を狂わせる様なショックな言葉だったと思います。

 

6年生の時、性器とその周辺が真っ赤にただれました。オロナインをしばらく塗りましたが酷くなる一方で皮膚科で診て貰いました。母親から診断結果は汗疹だったと聞かされましたが今思えば性病だったと思います。生理がきていない女のコの性器はバイ菌から守る力が弱く性病にかかりやすいそうです。治るまでに1ヶ月かかりました。

 

 

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性虐待①・・・私の家庭でなにが起こっていたのか

 

私は現在、香川県高松市に住む46歳。高校を卒業後、大阪に出て通信課程を経て美容師免許を取り、少しの休職期間はあったものの現在に至るまでの間、美容室でサロンワークにつかせてもらっております。


二十歳で結婚をしました。二人の子供にも恵まれ、一人目の子供の出産を機に大阪から香川に戻ってきました。三十歳の時離婚してしまい子供達には寂しい思いをさせてしまいましたが、今はもう二人共、成人して長男は県外に就職、長女も県外の大学へ進学しました。四年前からこの先の人生を共に過ごしたいと願うパートナーとの出会いもありました。


今まで周りの人々にいつも助けていただき、今日まで頑張ってくることができたと感謝しています。

 

私には学生時代からの友達にすら今まで言えなかった過去があります。ずっと言いたかったのですが、とても恥ずかしく惨めで、言いだすことができませんでした。言ってしまうことで友達に気を遣わせてしまい、本当の友達ではなくなってしまいそうで怖くて言えませんでした。

 

『神は乗り越えれる試練しか与えない』と言います。(私はキリスト教ではありませんが、キリスト教徒の叔母さんに教えてもらいました)子供の頃からずっと何度も神様に「わたしになぜこの試練を与えられたのですか? わたしには乗り越えることが無理です。お願いします。こんな試練を与えるのはやめて下さい。わたしの記憶からすべてを消し去ってしまってください」と祈りながら長い間生きてきました。

 

それは実の父親からの性虐待です。私の最初の男性は父親です。


最近、被害を受けていた頃の自分を冷静に客観的に思い出すことが出来るようになって、気持ちの整理がついてきました。父親とこうなったのも私に落ち度があったせいではないのか。人として犯してはいけないことをしてしまった生きる価値もない人間ではないのか惨めで汚らわしい人生。という思いが心の中に常にあり、ふと思い出す子供の頃の自分は、群れをなした害虫の塊のように汚く思えて目を背け、現実を直視することができませんでした。ただただ忘れたいと思うばかりでした。

 

そんな中『性虐待』という言葉は今までの考えとは全く違う角度から過去の出来事を客観的に見るとこに気づかせてくれました。かと言ってその言葉が最初から違和感なく気持ちと重なった訳ではありません。私は父親の間違った愛情表現からこんなことになってしまっているのだ。私は父親を許してあげなければいけない。私が広い心で許すことで関係が上手くいくのだ、とずっと長い間思っていました。なので一生懸命、笑顔で接するように努めてきました。

 

でもいくら頑張っても心の悲しみは癒えることがありませんでした。いろんな本を読みました。同じような経験をされた方の本やブログなども読ませてもらいました。

 

『毒になる親』は私のバイブル本となりました。

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子どもの頃、家庭が心休まる安心できる場所ではなかった、なにか今現在生きづらさを感じる方にはぜひとも読んで頂きたい本です。読み返す度に新たな気づきがあるとおもいます。

 

父親が加害者で私は被害者、初めて「私は、性虐待を受けていたかわいそうな子供だったんだ」と気がつくことができました。ここまで心が回復し、正しい認識をもち過去を乗り越えるまでに30年かかりました。「わたしが悪かったのでなかったのだ」と自分を許すことで子どもの頃の自分を暗いじめじめした牢獄から解放させる事ができました。

 

そこから思い出したくない一生懸命忘れようとしていた過去の出来事が、忘れてはいけない出来事に変わっていきました。私は経験したことを伝えなくてはいけない。これは見過ごされてはいけない大罪なのだと言うこと。被害者が訴えなければどれだけ残酷なことか、人生を狂わせてしまう出来事なのかを加害者に理解してはもらわうことはできない。しかし残念ながら被害者は言いたくても言い出せません。自分が言い出すことで家族を苦しめ傷つけてしまう。自分さえ我慢すれば、と思ってしまいます。

 

性虐待が原因でいろいろな依存症、精神的な病を患ってしまいどうすることも出来ない方も居ます。私はたまたまアルコールを受け付けない体質でしたのでお酒飲んで気を紛らわすことができず、アルコール依存症になることはありませんでしたが、体質的に大丈夫だったら間違いなくアルコールに飲まれていたと思います。薬物も手にはいる環境ではなかったからできなかっただけで、手に入れば100パーセント現実から逃避する為にのめり込んで抜け出せなくなったと思います。その時代は携帯もインターネットも今ほど進んでいませんでしたので援助交際することもありませんでしたが、今の時代なら間違いなく自暴自棄になり、援助交際をして父親以外の人とSEXをすることで安心感を得ていたと思います。私は他の被害者の方と比べ強かった訳でもなんでもありません。たまたまが重なり運良く逃げ通せただけのことです。

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そんな環境に感謝をし私は自分の受けて来たことを公表し、被害者の方々が言いたかった苦しみや悲しみを加害者に訴えなければいけないと思うようになりました。

 

加害者は子供は嫌がってなかった、と思っています。実際は嫌と言うことが怖くてできなかった。もしくは嫌と言わなければいけないことだと知りもしない年齢だった。ということに気づこうともしていません。ただ自分の欲求を満たすために、都合のいいように相手も喜んでいたのだからと正当化しています。

 

家庭内のことは第三者が介入しにくく、被害者を助け出すことは困難です。被害者もどんなに酷いことをされても、自分の親や身内の苦しむ顔は見たくありません。親を慕う気持ちも変わらずに持ち続けているので、自分から逃げ出すこともなかなかできない。そんな状況のなかで被害者を減らすためには加害者を減らすことしかないようにも思えます。

 

性虐待の抑止力になる為、できることは何かないのかと模索する毎日に変わっていきました。
過去の出来事があって、今の私があります。被害者にしかわからないことを伝えることで、消し去りたい過去が無駄ではなかったことになると思うようようになっていきました。

 

周りの人に性虐待のことを知られるのが怖くなくなりました。

 

同じ経験をした方にはわかると思いますが、ぐちゃぐちゃにこんがらかった感情を1人でほどいていくのは永遠と思えるような、気が遠くなる作業です。でも、誰か人に話をすることで気づきがあります。アドバイスしたりとか偉そうなことはできませんが、心を寄り添わせ、一緒に考えていくことはできるのではないのか。そんな辛い経験でも人の役に立つことがあれば、意味のある経験であったことになる。という考え方に、少しづつではあるけれど、確実に変化していきました。

 

 

このブログはノンフィクションです。私と同じ様な被害に遭われた方が読まれるとフラッシュバックする内容があります。ご注意ください。

 

 

 

 

 

幼少期

わたしへの性虐待はもっと前からあったのかも知れませんが、記憶に残っているので4、5歳くらいからになります。私の家族は父親と母親、私の核家族です。

 

父親は地方の一流企業と言われている会社に勤め、母親は専業主婦です。母親は教員免許をもっていますが、父親は働くことを許しませんでした。

 

母親は経済的にも精神的にも父親に全て依存していました。どんなに怒鳴られ酷い言葉を浴びせられようが、暴力を振るわれようが父親が言うことは正しいと思っていました。まさに共依存の関係です。母親は自分を犠牲にしてでも父親に尽くすことで自分の存在価値を認めていました。

 

私への性虐待についても、自分にも非がありお父さんみたいな良い人なのにそんな行動に走らせてしまって悪かったと後悔しています。子供の頃の私の目からみても、母親は父親の言いなりになる自分の意思をもたないロボットのように見えました。しかし母親自身はそれに気づかず自分の意思で行動していると勘違いしていましたが、洗脳されているとしか思えませんでした。

 

私が言うことを聞かなければ、父親は母親の育て方が悪い、しつけができていないと、母親と私を怒鳴りつけたり叩くという暴力的なところがありました。母親はよく泣いていました。父親が怖かったのだと思います。

 

母親は私に完璧な子供像を求めて、私の下着を膝までおろし、泣きじゃくる私のお尻を母親も泣きながら叩いていました。ある時は火をつけたマッチを消して熱いうちに私の手に当てて来たりと、私が言う事を聞くまで必死になってお仕置きだと言いながら、しつけと言う名の暴力が繰り返されていました。

 

普段はすごく優しい母親がヒステリックになる様子を見るのが辛く、私がお利口にしていないと母親まで父親に叩かれてしまう。私にとって家庭はとても心安らぐ場所ではありませんでした。


父親が、黒いものでも白といえば白となりますし、家族間の許されること、許されないことも父親の気分で日替わりです。毎日、父親の顔色を伺うようになっていきました。

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そんな父親でも楽しく遊んでくれたこともあります。母親が留守の時にはじゃんけんゲームをよくしていました。私が勝つとおやつを食べさせて貰えて、父親が勝つと私の股間を舐めます。私はくすぐったくて嫌でした。でもお菓子かもらえたのでくすぐったいのは我慢しました。その行為が何なのかはわかりませんでした。母親には言ってはいけないと言われました。母親が留守のときはいつもしていました。

 

でもやはり、何か恥ずかしいことのような気がしました。母親に隠し事をしているのが嫌で、なにか悪いことをしているような後ろめたさがあって、このことを母親に言いました。母親がどう返事したのかは覚えていません。たいして気にしたような様子も感じなかったので、気にした私がおかしいのだと思いました。でもそのゲームは、母親に言ったその日からすることはありませんでした。

 

その頃、私は寝る前に父親にキスをすることを義務づけられていました。それは凄く嫌でした。父親のベタベタした顔に近づくことにすごく抵抗がありました。何度も泣いて嫌だと訴えました。母親にも助けを求めました。せめて頬で許してほしいと言いましたが、聞き入れては貰えませんでした。

 

父親は私が産まれる頃、2年ほど出張でアメリカに行っていました。そこでホームスティ先のお嬢さんが父親に寝るときに挨拶のキスをしていたそうです。その風景が印象的で家族の絆の深さを感じたので真似をしたいということでした。

 

ここは日本です。叱られ泣きじゃくりながらキスをしても、親子のよいコミュニケーションになっていないということは誰でもわかりそうですけど、父親は私がキスをすると満足そうでした。

 

母親は父親に懐かない私に、少しでもコミニケーションをとらせようとしていました。父親が早く帰ってきたときはお風呂も当然のことながら一緒に入るように決まっていました。父親に性器を強く洗われて痛いと母親に訴えました。
お風呂の中でのことはまだハッキリと思い出せていません。父親とお風呂に入るのは凄く嫌だったのですが中でのことがボンヤリとしか出てこないので書くことは控えておきます。

 

 

 

 

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家庭内での性虐待

 

何十年経っても癒えることのない心の傷 世の中にはタブーとされている近親姦 。誰もが信じ難く目を背けたくなるようなことが、一見普通に見える幸せそうな家庭にもあること、実父親や母親の再婚相手、叔父さんなど近親者による性虐待があるという事実を、一人でも多くの人に知ってもらい、

 

正しい理解の上で自分の周りにいる子供たちに目を向け、子供からのわずかだけど精一杯の心のサインを見逃さないで欲しい、子供の言うことを信じて疑わず否定せず、性虐待の被害に気づいてもらいたいと願いながら、

 

自分の過去を、5歳から中学2年まで実の父親から性虐待を受けていたことを公表する決心をしました。

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性虐待被害は、ほとんどが家庭という塀の中で表沙汰になることなく固く閉ざされています。

 

被害者はそのことから何年経っても言い出すことができず、苦しみ続けます。

 

永遠とも思える暗闇にのみこまれた被害者は、心を殺され、生きることに絶望を感じながらも口を閉ざすことで、加害者も含め家族を守り続けています。

 

加害者は罪を犯しているにもかかわらず、あたかも被害者の妄想であるかのように、裁かれることもなく、平然と日常を送っています。

 

被害者は自分に対する嫌悪感と憎悪で毎日このまま消えてしまえたらどんなに楽になれるのだろうと、一日一日をギリギリのところで生き繋いでいます。

 

自分に何が起こっていたのかを見つめ直し、被害に合わない為にはどうすれば良いのか、もしあってしまっていたことに気がついたら周りはどう対処すれば良いのか、負の連鎖を起こさないようする為には何が必要なのか、考えていきたいと思っております。

 

これからのブログの内容で気分を悪くされることもあろうかと思いますがお許しください。

同じような被害を受けた方、もしくは受けた可能性がある方はフラッシュバックのおそれがある内容です。その場合は読むことをやめ、気持ちが落ち着くまで大きく深呼吸をして下さい。

 

1人でも多くの方にこのブログを読んでいただけることを願います。

些細なことでもかまいませんのでコメントいただけると嬉しく思います。

 

同じ被害者の方、ご意見やご感想をお聞かせ下さい。子供の頃のあなたは、なにも言えなかった、従うしか選択肢がなかったのです。子供の頃の自分を責めないであげてください。これから先の人生はどんなに辛い過去があったとしても、すべての人、平等に、次の日になれば、朝が来ます。朝が来ることは避けられないことです。

 

その一日をどう生きるかはあなたの考えで選択することができます。自分を大切にした生き方を選択して下さいますよう、心からお願いいたします。

 

今は見えていないかもしれませんがあなたには必ず明るい未来があることを信じて諦めないでください・・・

私と共に生きて下さい。

 

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