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性的虐待‥性虐待はなぜ起きる

私は実父親に幼稚園から中学2年まで性虐待を受けて育ちました。一見普通に見える家庭内で起こった犯罪。私の家庭で何が起こっていたのかを冷静に振り返りこれからの子供達を性的虐待から守ることが出来るのか、不幸にも私と同じ様な体験をしてしまった人達には何が必要かを考えて行きたいと思います

ブログに訪れた方はまずこちらをご覧下さい。

性犯罪に関する憲法の大幅改正!

先日、日頃から何かとお世話になっている方が新聞を持って来てくれました〜^ - ^そこには嬉しい内容の記事が!

 

強姦罪を起訴するのに被害者の告訴が必要となる「親告罪」の規定を削除する。法定刑の下限を3年から5年に引き上げる。強姦致死傷罪は5年から6年に、親などの「監護者」が影響力を利用して18歳未満の者に性的な行為をすれば、暴行や脅迫がなくても罰することができる「監護者わいせつ罪」「監護者性交等罪」を新設。強姦罪は女性に限定。改正案は男性も含め性交の類似行為も対象。などの改正案が閣議決定したと書かれていました!

 

 

長い間、父親が私にした事は無理やりでも無かったし脅されてた訳でも無いし、私自身受け入れてた時もあり、父親から見ると同意の上だと思っていたのでは無いのか、となると私も母親の立場から見ると私は不倫相手になり犯罪者になるのかとか悶々とした中で生きて来たため余計に過去の事に苦しみました。

 

(私の受けた性虐待は 性虐待① 性虐待② 性虐待③ に詳しく書いています。リアルな内容もありますのでフラッシュバックに気をつけて下さい)

 

 

今回の改正案で暴行や脅迫が無くても罰する事ができるとハッキリ言い切ってることに私は救われた思いがしました。私は悪く無かった。

 

大幅な改正は明治時代以来だと書かれていました。ん???明治以来って???今までは付け足し付け足しで来たってことなの?

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明治って電話も先ずは交換手にかけて相手に繋いでもらってた時代。

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今は電話は携帯するのが当たり前の時代。

こんなに生活は変わっているのに(@_@)

 

私、法律とか疎いからあんまり偉そうな事は言えないけど・・

 

学校での性教育も見直して欲しいです。私は、被害を受けている時は小学生でsexが何なのか、どんな事が自分の身に起こっているのかわかっていませんでした。赤ちゃんが出て来るところと排便するところは別だということも知らなかった(汗)

今回の改正を良い機会として学校で子供達に教えてあげて欲しいです。

 

もっと早くに教えてくれていたらもっと伝わる言葉で母親に相談出来たかも知れない、母親に言えなくても先生に助けを求める事が出来たかもとか。もっと性被害を口に出して言える世の中になって欲しい。今の世の中はまだ被害者も落ち度があるように言われてしまったりひどい場合は被害者が誘ったように言われたり変な偏見を受けてしまったり。そんな世の中では被害を口にする事が出来ません。

 

今回見直した事を第一歩にして今後の課題にして欲しいです。性犯罪被害者が減っていき性的虐待などの悲しい醜い犯罪も世界中から全て無くなりますように・・・

 

30年間理解の無かった母親が理解ある母親になる事に必要だった事④

前回の続きです。

 

昨年12月、幼少期から中学2年まで私が受けた父親による性的虐待を叔父(母親のお兄さん)に打ち明けて以来、母親は一変しました。「私が読んだ『毒となる親』を読んで虐待がどんなものか、受けた子供の気持ちはどんなものなのかを考え知って欲しい」と本を贈りました。その本には心理的虐待、身体的虐待、性的虐待、ネグレストについてわかりやすく書かれており親子関係の間違った価値観にハッとする気付きを教えてくれる私にとってのバイブル本です。

 

(私の受けた性虐待は 性虐待① 性虐待② 性虐待③ に詳しく書いています。リアルな内容もありますのでフラッシュバックに気をつけて下さい)

 

今回もいつもの様に何かしら言い訳を付けうやむやに終わらしてしまうのだろうと思って半ば諦めモードで贈った私でしたが読んでくれました!やっと私が苦しみながら生きてきた現実に目を向けようとしてくれました(^O^☆♪

 

今回は諦めずにアプローチした甲斐がありました!やったあ!!!

 

ってなんでそこまで嬉しいの?本を読んだだけなのにと思われると思いますが、虐待のあった家庭の親は自分の非を絶対認めないのです。良い親は常に自分の子育てはどうなんだろうと確認しながら振り返りながら反省しながら親として成長する努力をし、不安になれば周りに相談したり、本などを読んでみたり、今の時代ならインターネットで調べてみたりすると思いますが、残念な事に虐待のある家庭では『親が正しい!』という前提で子育てが行われますから、反省などは有りません。子供の声に耳を傾ける事は子供に負ける事。常に子供の上に立っていなければいけない!毒親アルアルだと思います(;ω;)だから、子供から虐待の本を渡されそれを読むなんて事は凄い事なのです。

 

現に私の母親は性虐待被害児の母親で有りながら一度も調べてみたりそれに関する本を読んで見たりした事が無かったのです。

 

 

叔父さんに「お前が悪い!」と言われた事で目が覚めたようです。母親は男尊女卑の考えですから自分の年の離れたお兄さんの言葉の影響力は大きかったようです。

母親は世間体を気にする人で友達にも自分の弱点を見せず相談する事など無かったので誰も間違っている事を教えてくれなかったのでしょう。

 

本を読んでからもっと変わりました。私の話に耳を傾けてくれるようになり母親からいろいろ聞いてきてくれるようになりました。

 

先月2月4日祖母が他界しました。最後は安らかに自宅で叔父さんと母に看取られながら息を引き取りました。享年98歳でした。

 

母親は自分の出来る事全てをかけて最後の一年間、香川と徳島を行ったり来たりしながら寝たきりになりアルツハイマーになってしまった祖母の介護をしました。目の前にいる母親を見ながら自分の子育ての事を振り返ったそうです。死がそれ程遠い話ではない祖母の姿が母親に考える時間と勇気を与えてくれたのでしょう。

 

母親はここ数ヶ月で本当に変わりました。過去を真剣に逃げる事なく理解しようとしてくれる強さがひしひしと伝わってきます。

 

私のこのブログも読んでくれました。数ヶ月前「いつまでも過去を気にしていたら前に進めない」と言い訳にして過去から逃げていた母親とは別人です。父親にもひるまない勇気を持って「お父さんは間違った事をしたよね」と言ってくれたのです。

 

母親が変わるのに必要だった事は間違いを気付かせてくれる人や本、苦しさに立ち向かい現実を受け入れる強さと勇気でした。

 

今までは傷つきたくない気持ちから自分の都合の良い言い訳を考え言い訳に事実を擦り合わせ傷つかない程度のところで自分を納得させて蓋をしていたんです。私から父親にされた事を聞いた時もただ少し触るところを間違えただけのスキンシップだと片付けてしまい大したことではないと自分の受け入れられる範囲で処理してしまっていたのです。今回私の口から「挿入」と聞かされ言い訳のしようがなくなったと言う事のようです。

 

弱かったのは私も同じで母親に伝える時、体の関係とか少し含みのある言い方をしていました。それと過去を思い出したくないのもあってすぐに理解してもらう努力を諦めていました。人に伝える時には思い出さなければいけないので、少し過去の蓋を開けて見てはいけないものを見てしまった時のように慌てて蓋を閉めてしまってました。第三者に知られるのも怖く周りの人に言いだすことが出来なかったのもいけなかったと思います。

 

今回も叔父さんに言えてなかったら多分母親も私も今までしてきたよう偽りの仲の良い親子のままだったと思います。

 

もっと早くに辛いと言えていたなら・・・

 

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母親はたくさんたくさん謝ってくれて「性虐待と向き合いながら今後私の力になりたい」と言ってくれています。

 

「ゆかり、ありがとう」

 

「ゆかり本当にごめんね」

 

「お父さんのした行動がどれだけあなたを傷つけていたのか正しく理解出来ていなかった事、本当にごめんなさい」

 

 

あー!!!凄く嬉しい!!!数ヶ月前にはこんなに理解してもらえるとは想像もしてなかったのですから(≧∇≦)

 

なのに私は欲深い!なんでもっと早くにわかってくれなかったのー!?と思ってしまうの

です(苦笑)

 

贅沢言っちゃあいけないですね!今の状況に感謝しないと〜〜☆私達、母娘やっと本当の親子になれるような気がします(๑╹ω╹๑ )

 

ん〜〜)^o^(頑張るぞ〜〜^_−☆

 

次は強敵!父親!の記事を書いていきます!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

30年間理解なかった母親が理解ある母親になるのに必要だった事③

前回のブログの続きです。

 

私が父親に受けた性虐待から後の30年間と母親が過ごして来た30年間はあまりにも考えの温度差があり私は困惑しました。母親に理解してもらう事はもう私には不可能な作業の様に感じました。母親にとっての30年は性虐待などうちの家には無かったかの様になっていました。

  (私の受けた性虐待は 性虐待① 性虐待② 性虐待③ に詳しく買いてます。リアルな内容もありますのでフラッシュバックに気をつけて下さい)

 

性虐待を理解してもらうのには先ずは母の中にある父親(夫)に対する洗脳ともいえる支配からのコントロール共依存、母親にとって父は常に正しく夫を敬い尽くし生きていくのが私の存在価値だと信じている生き方考え方を変える事から始めなくてはいけないと思いました。まさに男尊女卑社会を一つの家庭の中で実行してました。女性は口答えしない事が美しい姿だと思っていたところもあったのだとおもいます。私にも父親への口答えは一切許されませんでした。(今思うと口答えと言うより意見だったと思いますが父親の考えと違う考えを持つ事自体がご法度  笑)

 

近所の主婦友達が旦那さんの悪口を言うのを聞くことがあっても母親は一切父親の悪口を言う事はありませんでした。(悪口を言わない事はもちろん良い事ですが、現実、家庭内は理不尽な事から暴力が頻繁にあった訳ですから)

 

結婚してから47年間のパワハラからの洗脳を解くすべなど私には解らずもう諦めた方がこれ以上、母親の理解ない言動に傷つけられる事もなく心穏やかに生きていられる様に思いました。これから先の人生は親の存在を忘れ住所も告げずに引っ越しをしようと決めました。(今は実家の隣に住んでいます)

 

そう決めてもやはり諦めたく無い自分もいました。本当に不幸体質なんでしょうね。母親から傷つく言葉をどれだけ聞かされることとなるのか分からないけど今回こそは、母親の洗脳を解いてあげたい!!

 

私は子供の頃からずっと母親は可哀想な人だと思っていました。怒鳴られても叩かれてもどんなに家事を頑張っても褒められる事は無く母親は何が楽しく生きているのだろうと一緒に住んでいた18歳までずっと思っていました。

 

私は小さな頃、母親を今の生活から助け出したい。自由にさせてあげたい。私の大好きなお母さんを毎日笑顔にさせてあげたいと漠然と思っていました。精一杯おどけて見たりして笑わせたりサプライズ的に喜ばせる事もあれこれ考えたことをうっすら覚えています。(楽しかった思い出はほとんど思い出せません。子供の頃の記憶は親から受けた嫌な事がほとんどです。楽しかった事もたくさんあったはずなのに・・・)

 

そんな母親に対する優しい気持ちも父親からの性虐待を母親に打ち明けた中学2年、母親は私の味方になってくれなかった瞬間、瞬間冷凍されてしまいました。14歳〜16歳位まで私は積み木崩しのごとく反抗的になり少しの事で切れて叫びまくってました。(心優しいゆかりちゃんはホントいなくなりました。こんなに急激猛スピードで反抗的になった私に周りの大人は怒るばかりで一人も理由を聞いてくれなかったな〜先生も)

 

母親に残された人生は後二十年か三十年かわかりませんが、正しい道を自分の足で歩み生きて欲しい。それに気づかせてあげられるのは私しか居ないと思いました。

 

その頃の母親は週末は自分の家で過ごし平日は徳島の実家に帰り自身のお兄さん(私の叔父)と祖母の自宅介護をしていました。母親は自分の足も悪くしていて膝が痛いと言いながらも自宅介護を初めて一年間、先日祖母が亡くなるまで一度も辛いなどと愚痴を言うことはありませんでした。本当に優しく我慢強い母親なんです。なのに父親の罪を認める事が出来ず正面から向き合えない、父親を否定する事は自分の結婚生活47年全てを否定する事になるのでしょう。

 

母親に父親の性虐待がどんなものだったかを知ってもらい理解してもらう事は母親を苦しめ悲しい思いをさせてしまう事になるのかこのまま父親に尽くしながら命終わるまで過去に向き合わず生涯を終える事の方が母親にとっては幸せでは無いのかという葛藤も強くありましたが私自身大好きな母親に目を覚まして欲しい願いから私は母親にメールをしました。

 

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私 「今日徳島に行くので叔父さんと一緒に私の話を聞いて欲しい」
母 「 今は介護で大変なのでちょっと待って欲しい」

私    「いや、今だから聞いて欲しい。私、行くから」

 

と半ば強引に祖母の家に向かいました。

 

今までの様に過去に蓋をして仲の良い親子を演じるよりも叔父さんにも聞いてもらう事で母親も私自身も過去から逃げられない、母と一緒にこれから先、傷つけ合う事になってもそれでも母親に理解してもらう努力を諦めない!と決意しました。

 

九時近かったでしょうか、祖母はもう寝ていました。祖母の寝ている隣の部屋の食卓に叔父、母、私と座り子供の頃からの事を私は話、今後私は実名を出して児童性的被害者を守りこれ以上被害者を出さない活動に携わりたい。と言いました。今日、私が来る目的を母親から叔父さんに話してくれていたので叔父さんは私の話を冷静に聞いてくれました。

その都度、母親に「なんで気が付かんのか!それは、いつもそばにいた母親が気付いてあげるべきことだ。お前が悪い!」と言ってくれました。母親は、「実名を出して受けて来た事を公表するのは待って欲しい。今はお父さんは自治会の方で責任がある事をしているからそれが終わるまで待って欲しい。じゃないとみんなに迷惑をかけてしまう。そちらが片付いたらお父さんときちんと話するから」と言いましたが、この事にも叔父さんは「そんな事は今回のゆかりの話とは別の事で待ってくれと言うことではない!」とはっきり言ってくれました。叔父さんは細かいところまで説明しなくても私の気持ちを汲み取りながら話を聞いてくれました。

 

本当に嬉しかったな〜

 

私の事、理解してくれる人がいる。

 

中立の立場で話をしてくれる。話をして良かったと心底思いました。

 

私は「遅い時間までおじゃましました。おばあちゃんの介護で大変な時にこんな話を聞いてくれありがとうございます」と徳島のおばあちゃんの家を後にしました。

 

伯父とは特別、交流が深いわけでもなく今まで年に数回かのペースで会うぐらいです。なのに全然母親よりも話をわかってくれる。なんなんだろう、この違い。

 

母は何度も私に言います。「お父さんがあなたにした事はいけない事だけど良いところも他に沢山ある」

 

その度に私は悲しい気持ちになります。

 

良いことをしていれば悪い事に対しての刑が軽くなるの?

 

だとしても被害を受けた者から見ればそんな事は関係ありません。

 

ただ有るのは受けた被害の事への心の傷です。

 

 

この犯罪をあなたは加害者の奥さんの立場で見ていて被害者の母親からの立場で見ようとしてくれて無い。赤の他人が自分の娘を何度も言いくるめてレイプしていたら相手にも良いところがたくさん有るなど思うだろうか?

良いところがあったとして思うのは勝手だが私には言葉にして言わないで欲しい。遠回しに良い人なんだから許してあげてと言われている様で辛い。これって私の被害者意識が強すぎなのかな・・・

 

すいません、タイトルとズレ愚痴っぽくなりました:(;゙゚'ω゚'):

 

 

次のブログに続きます。

 

 

こんなつたない文章をたくさんの方に見ていただき申し訳なく思いながら感謝の気持ちでいっぱいです。

ありがとうございます。

色々な方に家庭で起こった児童性虐待が知ってもらいたい。

もっと今まで本をたくさん読んで上手く気持ちを伝られる様勉強しておけば良かったと思います。まさかこんな日が来るとは思いませんでした。私自身、死ぬまで誰にも話を出来る事ではないと思ってました。

もし私と同じ境遇の方も見ていただいてましたら一緒に胸を張って生きて行きましょうね。と伝えたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

30年間理解の無かった母親が理解ある母親に変わるために必要だったこと②

前回の記事の続き

 

昨年12月はじめ頃、仕事から帰り夜、母親に「私、性虐待を受けて育った事を隠さず公表して私のような被害者が今後出ないようにする活動をして行きたい。私の様な被害者が現実に実父親から性的虐待をされていた事を言いださなければ事実に気付いてもらえない。無かった事になってしまう。お母さんに言ってはいけないと言われていたけど、もう約束を守れない」と告げました。

 

 (私の受けた性虐待は  性虐待① 性虐待② 性虐待③ に詳しく買いてます。リアルな内容もありますのでフラッシュバックに気をつけて下さい)

 

この時の母親の返事がまたまた予想外。

 

母「そんなにまだ悩んでるの?うんと小さい頃の事でしょ」

 

私「小さい頃って中学二年までだけど」

 

母「嘘、幼稚園とかでしょ」

 

私「幼稚園の頃から中学二年まで。幼稚園の頃      だけだったら挿入までにならんやん」

 

母「嘘、お父さんそんな事したの?」

 

え?この人何言ってんの?

何を今更・・・

 

もう私何と言って良いのかわからなくなりました。今まで何度か話したしこんな重要な事、忘れられる人がこの世の中にいるの???

 

私が性虐待被害者を無くす活動をしたいとかと言う話以前に、母親は初めて知ったと言いながら悲しみに打ちひしがれています。

 

え???本当に知らなかったの?

ショック過ぎていつも記憶から消されるの?

忘れたふり?

にしては演技上手すぎだし・・・

 でも知らなかったのなら今までの母親の何も無かったかのように父親と生活していた事も納得出来る。

と言うことはやっと知ってくれたのだからこれから変わってくれるはずだ。

三十年間長かったけどやっと母親の愛情を感じて行きていける。

 今、目の前で娘の受けて来た性虐待を知り泣いてくれている母親こそが本当の母親なのかな。

 

母親に対して今まで持っていた不信感や絶望感などのわだかまりが消え許すことが出来る様に思いました。

 

母親に幼少期から中学までの受けて来た被害を全て話ました。母親はうつむいたまま真剣に聞いてくれて「今まで気が付かずにごめんね。辛かったね」と言ってくれました。

 

三時間くらい話をして11時近くになりまだショックを受けてうなだれた様子で心配だったのと、今は母親も父親の顔を見たくないと思っているだろうなと思い私は「泊まってく?」と聞きました。母親から出た答えは私の予想を180度裏切りました。

ニッコリしながら「あっ、もうこんな時間!早く戻らないとお父さんに心配かけちゃう。可哀想だから帰るね!」

だって。

 

、、、、(´;ω;`)

なに言うとん(;o;)可哀想って??

可哀想なんは私やろ?

心配かけるってここ隣やし!

隣の娘の家におるんやし!

心配やするかあ!!!

 

心の中で叫びました(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

 

この人どこまで洗脳されてるの(泣)

 

天国から地獄に突き落とされるとはまさにこの事!!!

ちょっと待て!!!

 

この時は私も食い下がりました。いつもならこの時点で諦めちゃってました。母親が可哀想になって来るのと、これ以上言ったら母親に嫌われちゃうんじゃないかとか所詮母親も私じゃ無いんだから私の気持ちなんか分かりっこ無いと言う思いが先に来ちゃって・・・

 

私「いつまでお母さんはこの問題から逃げるの?どうして正面から見ようとしないの」

 

母「過去のことじゃ無い。いつまでも気にしていたら前に進め無いじゃない」

 

と言って隣の父のいる家に帰っていきました。

私は母が帰った後、号泣しました。

私の人生なんなん!

ここまで自分の母に理解してもらえず何で産んだん!?

そんなに子供の立場になって考えんのやったら産まんといてよ!

無責任すぎやわ!

いつまで私は一人で苦しみ立ち向かっていかなあかんの(泣)

いつまで私の叫びを母親は無視し続けとくん(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

 

 

声を出して大泣きしました。その夜は一睡も出来ませんでした。

 

次の日は目を腫らして仕事に行きました。四十半ばになってもまだ辛い。

 

なんなん私の人生.・・・

 

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次の記事に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

30年間理解がなかった母親が理解ある母親に変わる為に必要だったこと①

七十一歳になる母親は徳島県の田舎町に四番目の子として産まれました。上の三人は男の子で初めての女の子だったので両親から凄く大切に育てられたと聞いています。小さい頃から日本舞踊を習わせてもらってました。真面目で清楚な感じの女の子だったのでしょう。地元の大学を出て教員免許を取り今から社会に出るという時にお見合いをしてそのまま結婚してしまいました。

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社会に出たことのない母親は全てを父親に依存してしまいました。金銭面もですけど、自分の振る舞いや考え方全てを父親のいう通りにすることが良い奥さんだと信じて実行していました。父親に叩かれることがあっても父親のことを悪く言ったことはありません。自分に足りないところがあるから怒られているのだと思い従うことで自分の居場所を確保している感じでした。自分の親にも愚痴を言う事は一度もありませんでした。心配をかけてはいけないと思い当時は何も言えなかったと言っていました。

 

子育てに対しても父親のいう事を全て実行していました。本当の母親の性格は優しく人に手をあげたりするタイプではありませんが、父親に洗脳されていた母親は父親と同じく言うことを聞かなければ私に体罰をしていました。無視もありました。とにかく些細なことでも思い通りにいかなければヒステリックを起こしていました。仕事に出ることは父親から止められていましたので教員免許を持ちながらも専業主婦でした。

 

自分に経済力が無かったことで本当に気の毒な人生だったと思います。

 

今現在は地域の行事やイベントのお手伝いしたりしています。愚痴を言わずに裏方に徹するタイプです。

結婚相手が優しい男性なら彼女は本当に立派な優しい母親になれていたと思います。

 

二十代、三十代の頃の父親は傲慢で理不尽な人でした。自分の思い通りにならなければ切れて怒鳴る、暴力を振るうと今思うと、かんしゃく持ちの子供です。仕事のストレスを全て私達に向けていたのでしょう。当時、私は子供だったのでそんな父親でも大人に見えていました。

 

今、四十六の私は当時の父親より年上になっているからでしょうか、父親を思い出すと笑っちゃうくらい幼かったように思います。子供が親の年齢を追い抜くのです。

 

そう思うとどうしてあの時はあんなことしたの?どうして?どうして?の堂々巡りから解放されました。どうして?とか理由などは無くただ父親は自分の気持ちの切り替えが出来ない子供、子供なので愛し方がわからずまだまだ自分が一番に愛されたい。愛情を独占したい子供、いたって簡単な答えでした。親はいつも自分の前に立ちはだかる人生の先輩じゃないことだってあるんです。

 

虐待をうけてた頃はあんなに怖かったのに(笑)

あんまり言うとまた怒られてしまうのでこのくらいにしておきます。

 

でも外面は違うようです。地方の一流企業でそれなりに昇進して頑張っていました。人徳があるように喋る事が得意です。地元のお寺を立て直す時には何百万もの大金を寄付したりして素晴らしいお父さんですね!といわれます。その度に私は心の中で(みんな本当の事知らないもんなー)と思ってしまいますが(*´Д`*)

 

母親が性虐待の事を知ったのは私が中学二年のときです。どうしても耐えられなくなり母親に救いを求めました。中学ニ年の私はからだ作りも名称もわからず女性には尿が出るところと便が出るところの間に赤ちゃんが産まれてくるところがあることすら自分では確認できていない子供でした。父親にされていることも実際見たわけではないし膣に挿入されているのがどんな状態なのかもわからないしどう伝えたらよいのかもわからなかったけど、できる限りの言葉を一生懸命伝え助けを求めました。

 

しかし母親にとっても父親が絶対だったので信じることが出来なかったのか私に他言しないように父親を許し忘れるようお父さんはゆかりが可愛くってした行動だったのだろうと父親を擁護する言葉でした。

 

私も母親を裏切り悲しませていることはわかっていたので、母親を責めることも出来ず、離婚して守って欲しかったけど、母親にハッキリと父親とは離婚する気はないと言われ仕方ない事だ自分が我慢するしかないだと諦めました。

 

事実を知ってしまった母親を心配しましたが、母親はすぐにいつもと変わらない生活に戻りました。ホッとする反面どうしてこんな重大なことなのに普通にしていられるのかと失望と腹立たしい気持ちで私の心は更に荒れていきました。

 

二十歳の頃、父親から母親伝いに謝りの手紙を貰いました。その時母親は「私も読ませてもらったけど、お父さんも悪かったと言ってるんだから許してあげなさい」と言いました。私はもう自分が我慢するしかないと諦めていましたので「わかった。もういい」と手紙を突き返しました。

 

私は三十歳でうつ病になりました。すべてのことに無気力になりました。虐待をうけてからずっと一人の時間が苦手で仕事が休みの日は何かと予定を詰め込みました。予定がない日は自然と過去の事を思い出してしまい、涙が溢れ出し死にたいとネガテイブになることへ心が耐えられなくなっていき結婚生活にも行き詰まりどうすることも出来ない精神状態になってしまいました。

 

私はまた母親に相談しました。「どうしても過去に囚われてしまい前に進めない。初めての相手が実の父だということが許せない」

手紙を受け取ったとき以来十年ぶりにその話題を口にしたと思います。

 

その時の母親は驚いた様子で「そんな大変なことをお父さんはあなたにしたの。お母さんの出来る精一杯の罪滅ぼしとしてあなたと孫たちの為にこれからの生涯をささげさせて欲しい。でも今はお父さんが会社で大切なプロジェクトに携わっているから後、数年待って欲しい。それからは別居する」と言い私に謝りました。

 

私はたぶんうつ病なので病院へ連れて行って欲しいとお願いしましたが母親は「うつ病とは気持ちの持ちようだからしっかりしなさい」と言われてしまいました。

 

でも後、数年我慢したら少しは母親が行動を起こしてくれる。今よりは何かが変わり気持ちも少しは晴れるのだろうとこの時も私は母親の言葉に従い自分自身に頑張るよに言い聞かせて何とかやり過ごしました。

 

離婚して仕事も行かずに一年間家にいました。その間の生活費は父親がみてくれました。

 

寝られない夜も少しずつ減り一年経ち、美容室の支店長をして欲しいとお話しを頂き仕事を復帰しました。環境が変わりうつ病も回復していき仕事へのやり甲斐を感じられるようになっていきました。

 

母親からはその後何年たっても何の行動もなく私が四十歳になった頃、あの話はいつのことかと聞きました。その頃は父親も定年していたので、仕事の為に待って欲しいとは言われないだろうとと思い、思い切って聞いてみました。母親からの返事は「お父さんと今更離れる気持ちは全然ない」でした。

 

その頃もうつ病は治ったものの相変わらず一人でいることが不安で休みの日は子供が学校から帰って来るまで一日中外で過ごし予定がない日は自殺願望とネガテイブな自分との戦いでした。

 

父親と縁を切ることは母親とも縁を切ることなんだろうと思っていましたから自分から強くも言い出せずやはり私が我慢するしかないのだと諦めました。四十歳にもなって母親の愛情を欲しがる私は子供なのでしょうか?

 

でもその頃から親の愛情を求めることは叶わないことなのだから諦めよう。そのことに悩み時間を使うのではなく私の受けていた性虐待を公表することで今後被害者を減らすお手伝いに時間を使おうと思うようになっていきました。

 

それによって親と決別するようなことになってもそれも私に課せられた運命と捉えよう。親に理解を求めてもどうにもならないのなら自分が変わるしかないと思い過去を振り返りどこで間違ってしまったのか自分を知らなければと勇気を持つように努力しました。

 

一度にたくさん思い出すことは精神的に無理ですが少しずつ調子の良い時に振り返り文書に書き起こしていきました。思い出していくうちに苦しみ泪が止まらず嗚咽を漏らしながら泣く日もありました。

 

少しづつですがいろいろ見つめ直すうちに自分が悪かったのではないと自己否定から自己肯定へ考えが変わっていくことに気がつきました。

 

死にたいと思う気持ちが全く無くなったとは言えませんが生きていても許されるような気持ちが湧いて来ました。

 

母親は本当は優しい人で父親以外の男性と結婚していたなら良い奥さんであり母親だったと思います。父親により人生をめちゃくちゃにされたという点では私と同じ被害者なのです。

 

私が被害を公表することで、母親も父親と同じ罪人になるのは可哀想で私は母親のこれからの人生を責任をもって引き受ける覚悟でもう一度、母親に話をしてみようと思いました。でもこの考えは凄く甘かった。今まで未練がましく母親に愛情を求めていた気持ちが全く無くなりました。絶望と蔑みの感情を抱くことになりました。

 

 

 

 

虐待の残す傷

私は幼稚園から中学ニ年まで実の父親から性虐待をうけていました。

 

幼稚園の頃は局部を触られることにくすぐったいから嫌だと思うだけでそれがどんな意味のあることがわからずにいました。本当の意味を知ったのは中学ニ年の頃でその時にはすでに最後の一線も越えていました。私の初めての相手は父親でした。

 

みんなしていることだと父親から言われていたこといつも怖い父親がその時はやさしいことからこれで良いのだと思っていました。

 

嫌だけど、しつけだといつも怒鳴られ頭をバシバシ叩かれたりしていたのでこのこともそれの延長くらいに思っていました。父親のすること、言うことは絶対の支配下で育った私は仕方ないことだと思っていました。友達は父親のことが嫌いじゃなさそうなので私も嫌ってはいけないと思って少しでも好きになれるように努力しました。

 

母親に父親のことが好きじゃ無いと何度も言いましたが「誰のおかげで学校に通えたりご飯を食べれたりしてると思ってるの?ちゃんとお父さんに感謝しなさい」と私がいつも悪者でした。

 

虐待が行われていた最中も「お父さん、好き」と言わされていました。嫌々ながらでも私の身体は少しづつ受け入れるように成長していきました。その当時、父親はすごく満足そうで幸せそうでした。父親を喜ばすことが出来ていることに私も幸せに感じたことも正直ありました。感謝の気持ちをこのことで伝え見返りに愛を与えられているような気持ちだったと思います。

 

今思うと当時の自分があまりにも健気で可哀想で涙が溢れますT^T

 

父親からの幼い頃からの性虐待の裏にはこんな捻じ曲がった感情が存在します。だから余計に事の真相を知った時、自分を嫌い蔑むようになります。受け入れていた自分を殺したいと思います。当時は情報がなく、自殺は刃物で刺すか首吊りか飛び降り、線路に飛び込むくらいしか思いつきませんでした。一番痛くなさそうなのは飛び降りなのかと思ってみたり。リストカットをしてみても静脈を切れない。どれも私には恐ろしく行動する勇気が有りませんでした。。

 

幸せになることも許されないように思いました。こんな汚れた私を好きになってくれる人なんかいる訳がないから結婚も出来ない、こんな汚れたからだで妊娠してしまっては赤ちゃんが汚れてしまうから自分の子供も持つことが出来ないそんな未来が全て奪われた失望感でいっぱいになりました。

 

三十年経った今でも「生きたいか?死にたいか?」と質問されると安楽死が出来るのなら『死』を選ぶかも。死ぬ覚悟で逃げなかった自分を未だに心の何処かで責め続けてます。どんなに幼いころの自分に「あなたは悪く無かったのよ。逃げなかったんじゃなく、逃げられなかったのよ」と言っては見るものの・・・

 

今現在は幸せなはずなのになぁ・・・

 

 

 加害者の父親はというとずっと俺様は変わらずですし、私には一度、二十歳の頃、謝罪の手紙を母親伝いでくれましたがその内容は薄っぺらくその後は何もありません。それどころか、私の娘が小学生の頃、「オジィちゃんにお腹の辺りを寝ている時さわららた」と私に言って来ました。娘も何かおかしいと感じたから私に言って来たのだと思います。反省するどころか、また私の娘にもあわよくばと思ってしまったみたいです。

 

そんな一面の裏に社会の為にとボランティアでいろんな市のことに首を突っ込んで活動したりしてみたりお寺を立て直すと聞いたら大金を寄付してみたりと人の為になることもします。

呆れるほど本当に内弁慶で弱い人間です。

 

同意の上だから仕方なかったと思い混み正当化しているのだと思います。自分も伯母さんからそんなことをされていたと言っていたので、血縁者どうしの関係は特別な事ではないと本気で思っているのかも。

 

 

 加害者と被害者の気持ちには大きなズレがあります。それがまた後々まで被害者を傷つける。常に親という立場でこの人には死ぬまで私を傷つけつづけるのだと思うとお願いだから早く死んでと思ってしまいます。

 

私は離婚してからも姓を戻していません。それを数年前に父親から、「別れた夫に未練があって戻さないのか?もうそろそろ戻してくれ」と頼まれました。私は一人娘なので、普通の親ならそう願うでしょうし、普通の娘なら子供達ももう大人なのだから話をして戻した方が良いと思うでしょう。でも私は「あんたと同じ姓になりたくないから戻さんのよ!」と言いたかった。どうしてそんなことも分からずに平気で姓を戻せと言えるのか気が知れません。親を傷つけたくないから笑って「またボチボチに考えるね」とか返事をしてしまいます。

 

私は京都のとあるお寺のお坊さんに相談に行ったことがあります。自分の受けてきたことを話、私は一人娘なのに姓を戻すことが出来ない。これは間違ったことなのか。親不孝ものなのか。戻さないことで子供達に悪い影響は無いのかとか。尋ねました。お坊さんは一言「戻す必要はない」とおっしゃいました。あなたはあなたの考えで今後も進んで生きなさい、自分が頑張ろうと思うことに全力を尽くしなさい。と背中を押してくれました。嬉しかったです。私は堂々と生きていいのだと生きることを許された気持ちになりました。

 

自分にとっては些細なことでも被害者にとっては深く傷つくことがそこら中に有ります。

被害者の心は地雷だらけで、心の中で何発も爆発させられ血まみれになりながらも周りに見せないように歯を食いしばり痛みに耐え続けて、また治りかけてきたら次の地雷を踏まれて。誰かに地雷の撤去作業を手伝って欲しい(あまりにも地雷の数が多すぎて自分一人じゃ何年かかっても取り除き切るのは無理だょーー)

 

でも人間とは凄いものでどんなに辛く忘れられない出来事でも少しづつ少しづつ記憶が薄れていきます。毎日思い出していたことが二日に一度になり、三日に一度になり一週間に一度になり、思い出した時の心の痛みも少しづつ少しづつ薄れて行きます。

 

今、現在苦しみの中で死にたいと願う方が、このブログを読んでいるのであれば信じて下さい。間違いなく今日の自分より一ヶ月後の自分、一ヶ月後の自分より一年後の自分、一年後の自分より五年後の自分と悲しみが薄れて行き楽いことも感じられるようになっていきます。

 

だから生きて下さい。死なないで下さい。お願いしますね。あなたは一人ではありません。かと言っても忘れることは出来ませんでしたが、幸せを感じられることも出来るようになっていきます。

 

私は一生懸命、母親に言われていたこともあり父親を許す努力をしました。三十年経って身体的虐待、心理的虐待については親もどう子供に接したら良いのか分からなかったのだろうとある程度は許すことが出来ましたが、性的虐待に関してはそれはどうしても理解することが出来ず、許すことできません。許さなければと思うことで余計に苦しみました。最近まで笑顔で父親と接してきました。長い間、自分の気持ちに嘘をつき素直な娘を装ってきましたが、作り笑いがバカバカしくなり辞めた途端に気持ちが楽になり今は目を合わすこともしなくなりました。やっと父親の支配から抜け出した晴れ晴れとした気持ちになりました。

自分のただ一人の父親だから許しこれからも娘として接しなければならないと勝手に自分を追い込んでいました。そんなことは必要無かったんです。血が繋がっていることで娘でいなければいけないなんて誰にも強制されるものではなく自分が誰を父親と思うのかが大切、親を他人だと思うことも選択肢にあり、逆に血の繋がりがりがない人を父親のように慕うことでもなんら構わないと考え方をかえました。

これからもまた気持ちの変化はあるかも知れませんが、もう自分に無理をするのは止めることにしました。

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相手がよっぽど謝ってきてその言葉を自然に受け入れることが出来た時にまた親子になれば良し!とすることにします。

罪を償ってもない犯罪者に気を使う必要なんて無いのに、親子って本当に厄介で犯罪者でも唯一の父親なんですよね。そんな関係者を踏みにじってるのだから、殺人くらい重い罪にするべきだど思います。

 

これからの日本が児童虐待に理解ある国に変わっていきますように・・・

 

 

 

 

 

毒親にならないために

私の勝手な自論です。サラッと聞き流していただけるとありがたいです。

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毒親に育てられると連鎖で知らず知らずに毒親になってしまうと言います。幼い頃から虐待が日常的にあった子供は普通の家庭を知らないんですから当然の事だと思います。

 

例えば両親が生まれて間もないころ何らかの理由で片親になってしまうと片親が当たり前で両親の揃った家庭が分からないのと一緒です。

 

子供はこれが普通なんだと理解しようとすると思います。怒鳴られたり叩かれたり体罰のない家庭がある事が逆に不思議に思います。どんなに自分は頑張ってみても叱られる。叱られないコは凄く賢い素直な子に違いない。私の態度がいけないのだ。もっと賢く素直な良い子にならないといけないと思うはずです。

 

でも子供はそんな安らぎのない生活に悲しい気持ちを持って行く場所がなくカンシャクを起こしたり、自分でも怒られるまた叩かれると分かっていても湧き上がる寂しさを抑えきれずに構って欲しいが為に無理な事を言い駄々をこねたりしてしまいます。それでまた余計に怒られて。永遠に終わりのない負のスパイラルに陥ります。

 

そんな毒親にやっと気がつくのは思春期に入った中学生くらいです。

 

自分の親が普通じゃ無かったんだ。と気が付いてもなかなか幼い頃から受けてきた事は身体に染み付いてしまっていてすぐには複雑にねじれた毒親からの洗脳はそう簡単には取りのぞけません。

 

自分の親を毒親だとは信じたくないという感情も当然ありますよね。

 

恥ずかしいですが私は幼稚園から中学生まで性虐待を受けていながら40歳になるまで親の事を周りの人に悪く言われることに頭では分かっていながら腹立たしさを感じていました。

 

 身体的虐待、心理的虐待、性的虐待の中を過ごした私でも何となく子供達は成人を迎え巣立っていきました。子供が男の子8歳、女の子6歳で離婚してそれからは隣の実家に住む母親の協力で仕事をしながら手探りの毎日でした。(母親は孫達には凄く優しく接してくれました)

 

私の子育ての基準は『もし親が選べるとしたらこの人の子供に産まれたい』と思えるような親になろう!です。

 

育児で悩んだ時、これに当てはめると大概どうにかなりました。人に迷惑をかける事、危険な事以外のことは出来るだけ見守りながら怒らないようにしました。

 

子供は親の行動をしっかり見ているので子供にどうこう叱るより自分の行動に気をつけるように恥ずかしくない行動を心掛けました。(当時はこれで大丈夫なのかと凄く不安でした。甘すぎなのかと心配しました。私の育った環境とは180°違うかったので( ̄ー ̄))ゲームもダメとは言ったことはありませんでした。(お兄ちゃんは高校受験の前日にも友達呼んでゲームをしていました。さすがにこれには感心しました。すごい度胸だ!)勉強もしなさいとは一度も言いませんでした。親が言わないと子供は逆に不安になるみたいで、困らない程度に自分で計画してしていたみたいです。

 

私に対する子育てはがんじがらめに全てが決まっていました。朝起きる時間から始まりテレビは1日30分。小学校のときの門限は5時。就寝は8時。ご飯はどんな理由があっても残さず食べる。ご飯の間はおならをしてはならない。トイレはもちろんダメ。ご飯の間でトイレ行くとその時点でご飯は終わり。言い出したらきりがないくらいしてはダメなことがありこれらのことを守らなければ怒鳴られる叩かれる。もういいと許可が出るまでの正座。そのほか体罰がありました。私にも守れないときはそれなりの理由がありましたが、理由など口に出すものならも一つひどい仕打ちが待っています。(父親だけは食事中もおならをしても良いんです。男だから。今考えると馬鹿馬鹿しい)

 

これら全てにおいて反面教師として実行しました(笑)逆育児書です。

 

心に反面教師と決めていても自分の一時の感情でヒステリックに叱ってみたり時には感情に任せで叩いてしまったり、親と同じ事をしてしまう場面もありました。そんな風に踏み外してしまうことがあってもまた自分の行動を改め反省し軸になるものに戻るように努力することを忘れなければ、極端にぶれることもないような気がします。子供達もグレることはなく勉強も生活態度もいたって平均的な感じで特別、困ることはありませんでした。

 

男の子は高校卒業後、車の会社に就職しており女の子は今現在、大学三年生です。来年は管理栄養士の資格試験を受けたいと言っています。(ねっ。いたって普通でしょ。ここでお医者様になりましたとかじゃないところがこの子育て参考にならんと思いますよね〜w)

 

頼りないこんな私でもお母さんが親で良かったと反抗期も終わり言ってもらえるようになり、そこそこ間違って無かったのかなって思えるようになりました。

 

このブログを読まれている方でちょっと子育てに悩んだとき、「ゆるぅーい感じの子育てでも案外どうにかなっていくんだなぁ」と思い出してみて下さい。

 

子供達の20歳までなんてあっという間です。20歳前後で家を出て別々に生活するようになることだってあるんです。1日のうち寝ている時間を除けば一緒に過ごす時間は4時間くらいでしょうか?そんな限られた時間なら少しでも親子で笑い合う時間を多く過ごした方がお得だと私は思い出来るだけ怒った顔は子供に見せないようにしました。

 

母親はきちんとしつけしないと子供が世間に出て困るんじゃないかと責任感からついつい厳しい言い方をして何としてでも言うことを聞かせようとやっきになってしまいがちですが、言葉を選び子供の言い分も聴きながら話し合った方が一見、時間はかかり面倒に思えますが、結局はそのほうが近道だったりすると感じました。

 

無理矢理圧力をかけ言うことを聞かせても得られるものは親の達成感だけのような気がします。

 

子育てとはひたすら我慢と忍耐なんだなぁ。とつくづく思います。